ほうじ茶   

 30歳頃まで「ほうじ茶」は法事の時に飲むお茶だと思っていた。
一人暮らしをしていて、お茶を飲む習慣があまりなく、
もっぱら家ではインスタントのコーヒーか紅茶。
実家で、持っていけといわれて日本茶の缶を渡されたくらいで、
ちゃんとした急須も持っていなかったと思う。
どうやって日本茶を淹れていたかといえば、
取っ手の付いた小さな網目の茶漉しを使っていたのだ。
母は玄米茶を日用していて、ほうじ茶は家になかった。
父は漢方のゲンノショウコのお茶を飲んでいて、
これはとても飲める代物ではないと思っていた。

 このほうじ茶が、実は「焙じ茶」であり、
煎茶や番茶を炒ったもの、焙煎したものであると知って、
何だか新しい世界のドアを開けたような気になった。
そして、飲んでみるとうまいのだ。
ほうじ茶は大きな急須に茶葉を多めに入れて、
熱湯をその中に入れるのがいいといわれている。
関西人の言い方なのだろうか、”ちんちんのお湯”である。
しっかり茶葉を広げさせて茶碗に注ぐ。
茶色い液体が湯気を上げる。
それを口にすると、香ばしさが鼻腔をくすぐり、
口に含むと独特の飲み味が広がる。
焙じたお茶であることがよく分かる。

 このほうじ茶、格付けでいうと玄米茶や番茶と同位だという。
なかには選りすぐりの高価なものもあるようだが、
手ごろな価格で、袋にぎっしりと詰まったものがいい。

 調べてみると1920年頃に京都で誕生したという。
たしかに京都のあちこちで出されたお茶はほうじ茶が多かった。
今宮神社参道のあぶり餅の二軒の店も、
餅と一緒に大きな急須が出てきて、ほうじ茶だったと思う。

 大学時代、この店の一軒でゼミが開かれたことがある。
森三樹三郎ゼミで、
教室に行くと、黒板に「ゼミはかざりやでおこないます」
と書かれていて、ぼくらは慌てて店に走った。
広い座敷のあるこの店で、あぶり餅を食べながら講義が開かれ、
ぼくらはお茶を何杯もお代わりしながら先生の話を聞いた。
店の人は何度か新しい急須を用意してくれたものだ。

 ちんちんの湯で淹れたほうじ茶。
勢いよく湯気が上がっているのは見ていて気持ちいい。
暖房が効きすぎる部屋ではなく、
ちょっと寒いくらいの、隙間風を感じる部屋で飲むと、
一段とうまさが増すように思える。

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# by kazeyashiki | 2018-01-04 12:48 | 京都 | Comments(0)

関西歴史紀行   

 秋からある広告会社で
「関西歴史紀行」なるホームページの取材と原稿を書かせてもらっている。
京都の通りを歩いてめぐる紀行で、
クルマや自転車でなく、歩いてのんびりと進む程度のゆっくりとした散策だ。
これまでに
「寺町通「丸太町通」「鞍馬口通」「鷹峯街道」「曼殊院道」「浄福寺通」と掲載し、
今後も「姉小路通」「千本通~五辻通」などを予定している。

 歩いてめぐる京の通り。
生活道路や商業地域もあるのでクルマの往来もそれなりにあるが、
古くから店を構えている老舗、
境内が縮小されたけれど由緒ある神社や寺院、
京都市が建てた歴史の碑などがあり、実に楽しい。
京都には18歳の時から暮らしはじめ30歳半ばまでいたわけだけど、
その間は芝居活動などに熱中していたせいか、
古刹や老舗にはほとんど興味がなかったし、知り得なかった。
だから新鮮に受け止めている。

 古くから京都に住む人たちにはどのように映っているのか心配で、
先日、京都の歴史文化や精神文化に造詣が深い音楽家の山田君と話をしたら、
さほど厳しい批評でもなかったので少し安心した。
とはいえ、文字数に限りがあるので詳細まで書き込んでいないし、
寺社仏閣にはさらに深くて底が見えないくらいの物語が隠されているのだろう。
まさに手掘り感覚で調べ、読者に興味を持っていただきたいと思っている。

「関西歴史紀行」HP
http://www.nipposha.co.jp/rekishikiko/

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# by kazeyashiki | 2017-12-24 17:12 | 京都 | Comments(0)

ホスウ   

歩数計を持っていていつもジーンズの後ろポケットに入れている。
京都の通りを巡る仕事の際、下見で朝早くから日暮れまで町中を歩き回る。
だいたい25000歩程度が計量される。
私の歩幅は84㎝であるから約20キロ程度。
以前、一緒に歩いた人の歩数計は30000歩と計量された。
歩幅の違いだとその人は分析した。

軽作業の仕事ではやはり日に25000歩になる。
だけどコンクリートの倉庫内をこれだけの歩数を歩いたとしても、
健康的だとは言い難い。空気も良くない。
京都の通り歩きにしてもアスファルトの道である。
だが頭上には空が広がっていて風に吹かれる。
この環境が大事なのだ。電灯のぶら下がった倉庫ではいけない。

これまでに最高によく歩いたのは、
天満橋から淀川沿いを上流へ歩いて京都東寺までだ。
夏の朝5時に家を出て、到着したのは午後6時だった。
この時は歩数計を持っていなかったから何歩だったのか分からない。
しかし、疲れた。

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# by kazeyashiki | 2017-12-16 00:03 | 暮らし | Comments(0)

『古都再見』   



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 昭和36年に河出書房新社から刊行された一冊、
『古都再見』をネットで手に入れる。1000円だった。

 古都京都の各所を様々な人達が書いている。

 巻頭は吉井勇である。
以下、知っている名前だけを書きだすと、
松田道雄、末川博、依田義賢、千宗室、吉川幸次郎、渋谷天外、奈良本辰也、
湯川秀樹、毛利菊枝、林屋辰三郎、池坊専永、田中美知太郎、小川環樹と
錚々たる執筆者がそれぞれ京都の地について書いている。
読み応えのある本だ。

 この本を教えてくれたのは、
浄福寺通で「ととや」というちりめん山椒屋を営む女性からで、
彼女の姿がこの本に載っているという。
「上七軒」の項を見ると、モノクロ写真で可愛い芸妓さんが写っている。
それが彼女だ。
昭和35年、女性は上七軒で芸妓をやっていて、
たまたま依頼されて被写体になったという。

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 その後少しして彼女は客で来ていた男性に求婚され、
上七軒期待の芸妓はあっけなく嫁になってしまった。
そのことで「いろいろ文句を言われましてなあ」と笑う。

 湯川秀樹さんは「大仏殿石垣」という稿を寄せている。
国立博物館から豊国神社、方広寺界隈を、若き物理学者はよく歩いたという。
秀吉の死後に再建された方広寺の鐘を巡り、ひと騒動あったことを湯川は
「彼(秀吉のこと)の気質は大多数の京都人とは、およそ反対のように思われる」
と書き、大仏殿のあったあたりがさびれてしまっているのは、
この気質の違いではないかと書いている。

 今、この地区を歩くと、住宅が無秩序に建ち並んでいる。
湯川も、昭和35年頃に歩いていて、
「いくつもの楽しい家庭生活がそこで営まれていることを喜びたいと思う」
と書いている。
”もはや戦後ではない”といわれた昭和31年から数年後の日本。
この物理学者にとって平穏な暮らしの営みは貴重なことだったのだろう。
そういえば、最近湯川の戦時中の日記が発見された報道があった。
広島長崎に投下された原爆についての記述があったと聞いている。
だが、新聞社の問いかけに氏は沈黙を守ったと。

 半世紀前の京都の風土、風景、精神文化を知るにいい一冊である。

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# by kazeyashiki | 2017-11-28 15:45 | 京都 | Comments(0)

京歩き晩秋篇   


二条駅を起点に千本通を上る。

丸太町通交差点に太極殿跡の碑がある。

中立売界隈はかつて西陣興隆期、西陣京極なる繁華街歓楽街だった。
芝居小屋や映画館、居酒屋、スナックがひしめいていた。
その残像が今も幽かに残っている。

すっぽん料理の名店は今も営業中だ。

千本今出川角近くのレトロな喫茶店は祝日ともあって満員御礼。

師走の風物詩「大根だき」の千本釈迦堂は、
12月7~8日の本番前の下準備にいそがしい。

五辻通を西へ。京都最古の花街上七軒の石畳には大勢の観光客。
仏蘭西料理店「萬春」はすでになく、新しい店が軒を連ねている。

やきもちの天神堂で買い食い。

天神さんに足を踏み入れたら、
境内一面に参詣者が広がっていて歩くもままならぬ。
様々な言語が飛び交っていた。

千本通から寺之内通へ。

先日撮影に訪れた折に買い求めた「ととや」のちりめん山椒があまりに美味だったから、
また買い足しに。
美貌の女将と話し込む。聞けば、若い頃に上七軒の芸妓だったという。
古写真を見せて頂く。
それをスマホで撮影。
美人である。
彼女手作りのちりめん山椒は、炊きたてご飯に合う。

土産をザックに詰めているだけで嬉しい。

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# by kazeyashiki | 2017-11-23 20:55 | 京都 | Comments(0)