少年兵   

 昨晩、BS2の「世界のドキュメンタリー」で、「少年テロリストたちの“夜明け”〜更生施設の18か月〜」が放送された。パキスタンにおける、タリバンに洗脳された少年たちの更正を描いたもので、彼らの洗脳を解く18ヶ月を追いかけたものだ。洗脳を解くために多くの精神医や宗教者が授業や面談を繰り返すのだが、懸命に更正プログラムを遂行するイスラムの宗教学者は暗殺される。また、洗脳が解けて帰宅を許された少年も、その後のことは分からない。いつまたタリバン組織に戻されてしまうかもしれない危険を孕んでいる。

 少年たちの多くは鬱状態であると解説されている。これまで「自爆テロをすれば、幸せな天国にすぐに行ける」「天国では何でも手に入れることができる」「そこは楽園だ」と教え込まれてきた少年たちに、「イスラムの教えでは人を殺すことは許されていない」「自殺と同じように、他人を死に至らしめることはイスラムではない」ということをこの施設で学んでいくことで、大きなジレンマに陥る。だからカウンセリングの場で少年たちは自分の経験したこと、真実を決して語らない。先生に対して目さえ合わそうとしない。こうしたことを何度も繰り返しながら、真実を語るまで根強く続けられていく。精神科医は女性である。ときには厳しく、ときには母のようにやさしく接する姿がそこにあった。ひとりの少年が帰宅した様子をカメラが捉えていた。少年の母、祖母、姉、妹たちが少年を抱きしめ、出迎える。しかし少年の村には仕事がない。街に出て行き、働くしかない。街に出れば、またタリバンと接触する可能性を否定できない。

 番組は、今ならオンデマンドで視聴できる。

http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/120903.html



 かつてアフガニスタンに出かけた折、少年兵を見かけた。彼らは大人の兵士に交じって、AK-47自動小銃を肩に背負い、自分も歴とした大人だという顔でおれたちを見つめてきた。だがその表情や仕草は少年のそれだった。同行していたNPOスタッフは、彼らが銃を手放して、学校で読み書き計算を習うことを目指しているのだが……と語ったが、彼らにはもうその気持ちがないのは明確だった。食堂で大人の兵士たちとメシを喰い、煙草を喫って冗談を言い合う。クルマの運転を任されて、緊張した面持ちを隠すためにへらへらと笑う。少年たちはタリバンではない。地域の司令官の下についている兵士だ。しかしそれが非タリバンかというと断言はできない状況がある。彼らはタリバンを敵であると考えていない。あくまで地域の治安維持が目的で、司令官は政府組織と関係はあるが、その地域にタリバン兵士がやって来たら、彼らの元で治安維持をする、という可能性もある。つまりタリバン非タリバンの境界線は実に危うい。

 ちなみに司令官の男は30半ばのよく喋る陽気な男で、おれたちと食事をしたとき、ビートルズが好きだと言い、旋律を歌った。

 おれたちがある村にクルマで乗り付けたとき、同じように少年兵が外部からの侵入者であるおれたちを取り囲み、お前たちは何者であり、何をしに来たのかを詰問した。NPOスタッフの現地人が説明したが、彼らは緊張した姿勢で立ち、おれたちに銃口を向けた。「それを下ろせ」と現地スタッフが何度も告げたが、彼らは司令官と村長と長老が来るまではダメだとくりかえした。やがて司令官がジープでやって来て、ようやく事態は安定した。

 丘の上に建てられたCLC(コミュニティ・ラーニング・センター)で撮影し、麓の広場まで戻ってきたら、少年兵たちがバレーボールをやっていた。ゲーム人数が足りないというので、おれたちも加わった。銃口を向けていた彼らは、そこでは笑顔の少年たちに戻っていた。コートの周囲の樹木にAK-47がいくつも立て掛けてあった。

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〈カブールの街角で物売りをする少年。学校へは行っていないと言った。〉


 宗教がからむ戦い、ということをおれたちは実感として持ち得ていない。信仰心はおれにもあるが、そこには仏教とイスラム教の違いはあるだろう。むろん地勢的な問題、多民族問題、大国の思惑などが複雑に絡んでいる。だが、竹島や尖閣諸島の問題に表出してくるナショナリズム、また、震災によるガレキ受け入れや、福島第一原発周辺地区への対応など、そこには解決が困難な同時代問題が点在している。裾野は違うが、自分という小さな目から見ると、うまくは言えないが、「見て見ぬふり感」が拭いがたくある。おれ個人という尺度でしかないことは重々承知した上での話であるが、不参加、非行動、黙り込みという痛点回避の志向が透けて見える。

 一本のテレビ番組を見たことで気づくこと。あまりに暢気といえば暢気であり、平和ボケといわれればその通りだ。「読み、書き、考える」の次に来るのは「問う」である。この「問う」ために「考える」があるのだが、実はそのすき間に「動き」「見聞きする」が抜け落ちている。

 動かない自分がいやになる。
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by kazeyashiki | 2012-09-04 12:00 | 世界 | Comments(0)

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