恋の奴隷   

女   お仕事、進んでまして?
男   ……………。
女   雨の日は何かと想い出すことが多すぎて、
    畳に染みついたお醤油のシミを見ても何だか胸せつなく、
    むかしのことをつらつらと思い起こしてしまいます。
男   むかし?
女   ええ、私がまだ産まれる前のこの辺りのことや、
    家のまえを通りすぎていく人のお顔など、知りもせぬのに、雨のせいで、
    浮かんでは消え、消えては浮かぶ……そんなことをくりかえしております。
男   ふしぎなことを言うやつだ。
女   墨をお摺しましょうか?横着をして唾(つばき)で摺ったりなんかしては、
    せっかくの小説が何なら匂って来そうで……(と、水差しを取りに行き、戻ってきて)
女   今度の作品はどういったものか、私に聞かせていただけますか?
男   ふむ。なかなか難儀をしておる。
女   難儀な恋ゆえ燃え上がりますように、
    難儀な小説ゆえ、読むお方もお喜びになるのではありませんか。
男   (笑って)そう簡単にはいかんがな。
女   テエマは何でしょう?
男   ほう、テエマと来たか。えらく硬くでたな。今回は恋がテエマじゃ。
女   恋?争いごとでございますね。
男   ほう、恋は争いごとか?
女   恋が本当に恋らしく思えますのは、世が乱れ、
    ひと様の心がすさんでいるときの方が美しくあるようで、
    そのなかに一輪、咲かせる花こそまことの花ではないかと……
男   (笑って)男にはそこまでの余裕はないな。
    乱世なら乱世を如何に征くべきか、そちらの方に傾くものよ。
女   そこが女の恋の導火線。平静なる世の中など、男を骨抜きにするだけでございます。
    嗚呼、平静さなど男も女もダメにさせるだけのもの、ちっとも面白くありませんわ!
男   (笑って)まあ、おなごならそう思うだろうなあ。
女   ねえ、ちょいと読ませていただきたいわ!(と、原稿の束を奪い取る)
男   こらこら、よさんか!
女   (小走りに男から遠のいて原稿を見て)恋の、奴隷!?

その途端、奥村チ歌う「恋の奴隷」が流れ出す。
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by kazeyashiki | 2013-02-14 17:20 | 素描 | Comments(0)

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