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林檎の種子

 寺山修司の「書を捨てよ 町へ出よう』という映画を見たのはいつだったか。一乗寺の京一会館であったと思う。この映画に「もしも世界の終わりが明日だとしても、ぼくは林檎の種子をまくだろう」という言葉が引用され字幕で表記されていた。なんだかキザな言い方だなとその時は思ったものだが、今またこの言葉を頭の中でくりかえすと、こういうことを言う人も、映画の中で表す人も少なくなってきているのではないかと思う。

 いや、上映されている数多くの映画の中で、ふとした瞬間に、何か本質を突いているセリフが語られることはあるだろう。演劇や絵画、音楽をはじめ表現の世界においてもそれは同じだろう。だが、それらの言葉が取り上げられ、独り歩きしていくことが少ない気がする。本質を突くというのはぼくの主観的な解釈でしかないけれど、これだけネットが蔓延し、語られる言葉が膨大にふくれあがっているというのに、心を打つ言葉が見当たらない。どこか即物的で実利的で、現物支給の言葉のような気がする。現物支給は実用的でいいのかもしれないが、あまりに便利だとこれでいいのか?と疑問を覚えてしまう。

 「もしも世界の終わりが明日だとしても、ぼくは林檎の種子をまく」だろうか?と自問してみる。林檎の種子はどこで手に入れるのですか?ということを言う者もいるだろう。同時に、明日世界が終わる根拠が知りたいと質問する者もいる。どこに植えるのか?その時、空の色はどんな色?すでに地球のどこかは壊れ始めているのですか?助かる方法はないのだろうか?Q&Aのように質問が飛び交う。質問することにためらいがないのは構わないけど、考える前に尋ねることに僕自身も馴れている。当然、答えは用意されているだろうという甘えがあると思わざるを得ない。これって、やはり問題なんではないか。

 「読み、書き、考える」という言い方が学問の基本を成すものなら、そこに「問う」を加える必要があると言ったのは、S先生だった。問いかけることでグラウンドが広がると。しかし、僕は「読み、書き、問う」になっている自分を発見する。つまり、「考えていない」。情報過多は言い訳にならないと自戒した上で、なぜ「考えない」のかを考える。早く答えを知りたいからか。そんな性急さが必要なんだろうか。

 ふと思い出したが、寺山修司は飼っている亀に「質問」と「答え」という名前をつけていたそうだ。この亀たちは、仲が悪かったという。
by kazeyashiki | 2015-10-28 10:20 | 世界 | Comments(0)

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by 上野卓彦