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さまざまな死のかたち

 先ごろ亡くなったムッシュかまやつ氏は、その数日前に亡くなった奥さんのことを知らずに天国への階段を登って行った。かつてムッシュ氏は、「死ぬときに走馬灯のようにいろいろなことが通り過ぎるっていうじゃない」と朋友井上堯之に語っていたが、ムッシュは走馬灯を見たのだろうか?だが、この地上からふわりと浮き上がって飛翔しはじめた時、走馬灯に現れた奥さんが目の前に迎えに来てくれたのだとしたら、ムッシュはさぞ驚き、「君も死んじゃったの?」と悲しみ、やがてゆっくり微笑んだのではないか、と身勝手に想像してしまう。

 今日見たニュースで、まもなく妻を亡くしてしまう夫の結婚相手を求める、というコラムが新聞に載った。書いたのは妻自身である。つまり、もう死にゆく自分が、残された夫の結婚相手を募集するという一文だ。「彼は恋に落ちやすい男性です。私の時も1日でそうなりました」と書き、夫ジェイソンは弁護士で料理やペンキ塗りもうまく、何よりも思いやりのあるパートナーだとアピールする。そして、やがて、まもなく、彼女は天国への階段を登って行った。ジェイソンは、妻の尽力に応えて新たな人と結ばれるのだろうか?いや、そこの話ではない。妻にその文章を書かれた夫の心境が気になるのだ。妻が残した個人宛ではなく、パブリックなメッセージだから周囲の人たちもジェイソンの内面の一部にも侵入して来る。がさつに「で、お前、どうするんだ?」友人なら訊ねてくるだろう。彼がどう答えるか知らない。自分ならどう言うか。

 「死ぬのはいつも他人ばかり」といったのはマルセル・デュシャンだが、それを知ったのは寺山修司の本だった。寺山の横にはいつも死の水脈が横たわっていたような感じがある。若い時に大病を患い、自分のこの惑星での生の時空は他者より長くないことを自覚していたのだろうか。「死ぬのはいつも他人ばかり」の解釈を寺山は、自分の死を量ってくれ、知覚するのは他人だ、と書いていたように思う。

 さまざまな死がそこにある。やがて死がもっと身近になっていくことは生物学的をはじめ、あまたの「~~的」により立証されている。それまでは、「他人ばかり」と感じ続けているだけということか。

by kazeyashiki | 2017-03-15 23:38 | 記憶 | Comments(0)

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by 上野卓彦