カテゴリ:記憶( 23 )   

思い出すこと   

彼とは同じような業界にいながら、あまり接点のない場所での仕事だったので、一緒に部屋にいて作業をするということはなかった。だが、彼の人の良さに惹かれてたまに酒席を共にすることがあった。


まだ彼の会社が立ち上がる前、以前の職場を離れ、当時私が所属していた会社のオフィス内に彼はデスクを設け、会社立ち上げ準備をしていた。愛嬌のある人柄に私はすぐに打ち解けた。コーヒーを淹れるときに彼のカップ(実に可愛らしいアニメか何かのキャラクターのカップだった。彼はそういうカワイイものが案外好きだったなぁ)にも注いでデスクに持って行くと、「あんた、気が利くなあ。やさしいなあ」と言った。言われた方が照れてしまうようなセリフまわしで、笑うしかなかった。彼はそうした一言をすぐに言える、気配りのきく男だった。


夕方、会社が引けて仲間と飲みに行く算段をしていると、彼はいつも「どこ行くん?」と着ぐるみキャラクターのような言い方で言ってきた。飲むこと、食べること、話をすることが好きで、さびしん坊だった。そして安い居酒屋で飲み、その後、カラオケが歌える彼の馴染みの店に行くと、マイクを持った彼は朗々と歌い上げた。これは実にうまい。私たちは瞠目してその姿を眺めていた。そして、〆の歌はいつも彼の「そっと、おやすみ」だった。これも絶品だった。


古いふるい過去のこと、まだ阪神淡路の震災前の話である。


その後、彼の会社の状況について人を介して聞いていた。時代は変わり、映像制作の形態もどんどん変化を遂げ、簡素でクォリティの高い映像がPCで作れるようになり、彼の会社で編集作業をする人達が減り、その結果、会社の経営は厳しくなっていった。それでも彼はがんばった。さまざまな苦しい状況を乗り越えていると聞いた。仲間たちは去って行ったが、それは仕方のないことで、仲間たちは彼のことをずっと大切にしていたのではないか。


二月の末に倒れたと聞いた。処置が遅れ、酸素が途切れてしまったために意識が戻らないとも。彼は天満橋の近くの病院に運び込まれた。それから維持装置によってその生命が保たれていて、ベッドにいることはいるが反応することがないとも。私はしばしば大坂城天守前広場に出掛け、彼がいる病院の建物を眺めた。何とか奇跡よ起こってくれと切願した。桜の花が咲く頃に光明が訪れてくれと願った。やがて城の桜は咲き、花びらが大地に模様を描いた。そして……。


サッカー部の黄色いバッグぶら下げし君やたらとうまい歌に目を見張り

ある夕のお初天神安鮨屋偶然出会いしたがいに疲れ顔して

長々と眠りし君の病室を太閤城より眺めつつ浪花のことは夢のまた夢


内田隆文安らかに新緑萌えてそっとおやすみ


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by kazeyashiki | 2017-04-27 10:29 | 記憶 | Comments(0)

さまざまな死のかたち   

 先ごろ亡くなったムッシュかまやつ氏は、その数日前に亡くなった奥さんのことを知らずに天国への階段を登って行った。かつてムッシュ氏は、「死ぬときに走馬灯のようにいろいろなことが通り過ぎるっていうじゃない」と朋友井上堯之に語っていたが、ムッシュは走馬灯を見たのだろうか?だが、この地上からふわりと浮き上がって飛翔しはじめた時、走馬灯に現れた奥さんが目の前に迎えに来てくれたのだとしたら、ムッシュはさぞ驚き、「君も死んじゃったの?」と悲しみ、やがてゆっくり微笑んだのではないか、と身勝手に想像してしまう。

 今日見たニュースで、まもなく妻を亡くしてしまう夫の結婚相手を求める、というコラムが新聞に載った。書いたのは妻自身である。つまり、もう死にゆく自分が、残された夫の結婚相手を募集するという一文だ。「彼は恋に落ちやすい男性です。私の時も1日でそうなりました」と書き、夫ジェイソンは弁護士で料理やペンキ塗りもうまく、何よりも思いやりのあるパートナーだとアピールする。そして、やがて、まもなく、彼女は天国への階段を登って行った。ジェイソンは、妻の尽力に応えて新たな人と結ばれるのだろうか?いや、そこの話ではない。妻にその文章を書かれた夫の心境が気になるのだ。妻が残した個人宛ではなく、パブリックなメッセージだから周囲の人たちもジェイソンの内面の一部にも侵入して来る。がさつに「で、お前、どうするんだ?」友人なら訊ねてくるだろう。彼がどう答えるか知らない。自分ならどう言うか。

 「死ぬのはいつも他人ばかり」といったのはマルセル・デュシャンだが、それを知ったのは寺山修司の本だった。寺山の横にはいつも死の水脈が横たわっていたような感じがある。若い時に大病を患い、自分のこの惑星での生の時空は他者より長くないことを自覚していたのだろうか。「死ぬのはいつも他人ばかり」の解釈を寺山は、自分の死を量ってくれ、知覚するのは他人だ、と書いていたように思う。

 さまざまな死がそこにある。やがて死がもっと身近になっていくことは生物学的をはじめ、あまたの「~~的」により立証されている。それまでは、「他人ばかり」と感じ続けているだけということか。

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by kazeyashiki | 2017-03-15 23:38 | 記憶 | Comments(0)

記憶の町へ   

大洲に出掛けたのはいつの頃だったろう。まだ学生で、大学紹介のアルバイト、寺院本堂に装飾を備えつけに、仏具店社員の男運転のバンで朝から国道を走り続けて夕方に到着した。

翌朝、宿から城が見えたのをかすかに憶えている。ただ、この写真の天守はまだなく、石垣の上に小さな櫓があっただけだった。大洲の町では、しばらくまえに撮影された寅さん映画の話をくりかえし聞いた。

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寺で脚立に乗り重くてきらびやかな装飾を支え持ち、終わって大洲から宇和島へ走り、午後いっぱい宇和島の町をうろついた。宇和島城の近くの高校のクラブ活動を眺めたりした。

夕方になり、社員に指定された居酒屋に行き梅錦と大皿の塩エビを食べ、酩酊した。居酒屋大将がブルース好きでウエストロードを流し続けた。その仏具店の子息がベース奏者だったから。

帰りがけ、大将は梅錦一升瓶を土産に持たせてくれた。今まだあの店はあるのだろうか。和風の居酒屋の壁に貼られた憂歌団と白桃房のポスターを憶えている。

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by kazeyashiki | 2016-12-16 23:54 | 記憶 | Comments(0)

かき氷    

暑い夏になるとかき氷が食べたくなる。

一昨年までは、母の家に行けばいつもかき氷が出た。
冷蔵庫の製氷だからさほどうまくないのかもしれないが、思い出す味は甘い。

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いらないと断っても作るのだから無理矢理だったが、
作って食べさせることを喜んでいたんだろうなあ。

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by kazeyashiki | 2014-07-28 14:42 | 記憶 | Comments(0)

母の日   

FMを聴きながら仕事をしている。
明日は母の日ということで、いろいろな母の歌が流れてくる。
今はジョン・レノンの「マザー」が、
ついさっきは、清志郎が母に捧げた「デイドリームビリーバー」が。

わが母が亡くなって1ヶ月あまり。
まだおれは母のことを書くことができずにいる。
なにも長い文章を書こうと思っているわけではない。
だけど、どうしてか書けない。
まだ、見えない何かがあって、書き出せないのだ。

生前、母からはさまざまな話を聞いた。
取材みたいにして質問事項を作り、
母がそれに書き込んで答えてくれた十数枚の文書もある。
これをもとに、母の人生を描くこともできるだろう。
だけど、書けないのだった。

先日、谷町花壇で母の日に贈る小さな花の籠を買った。
贈ることはできないからテーブルの上に載っている。

妹は母の夢を見たという。
場所は北海道の駅で、母と父が改札口で待っていたそうだ。
そして二人はクルマでどこかに出かけたとか。
きっと二人が好きだった知床にドライブしているんだろうな。
二人とも生前は出かけたことがなかった知床。
ようやく行けたなあ。

それにしても、花祭りの日に亡くなり、
父の命日に告別式をした母。
縁というものがあるんだと思う。

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by kazeyashiki | 2014-05-10 18:01 | 記憶 | Comments(0)

3年   

あれから3年…。
今日は静かに黙して過ごす。
風景は変わったのだろうけど、変わらないものがあるだろう。
2011年4月から6月にかけての写真を並べることで、
おれなりに思いたい。


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by kazeyashiki | 2014-03-11 10:49 | 記憶 | Comments(0)

垢嘗め   

学生時代のことだ。
後輩のN君が引っ越したというので尋ねて行った。
築10年くらいのマンションで、トイレと風呂がついている。
当時、部屋に個別のトイレ&風呂がある部屋に住むのは高嶺の花……。
仲間はみんな、共同便所&銭湯だった。
さぞかし快適な暮らしかと思いきや、N君は冴えない顔をしている。
聞けば、夜中に風呂場で何か気配がするという。
前の住人に何かあったのでは?と言うのだ。
「いきなり電気をつけて扉を開けるべきだ」と進言したが、
「コワイですよー」と言う。

何日かしてまたN君宅へ行く途中、
近所の酒屋で差し入れを買ったついでに、店のおばさんに聞いてみた。
「あそこのマンション、前は何が建っていたんですか?」
するとおばさんは、
「あそこは風呂屋、銭湯やったんよ」
……合点がいった。
N君の風呂場にいたのは「垢嘗(あかなめ)」だったんだ。
そのことをN君に告げると、弱々しく彼は笑った。

……あれから30余年、
N君はいま、故郷の温泉地にある旅館の支配人である。
きっと風呂場の掃除は徹底するように指示を出していることだろう。
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by kazeyashiki | 2013-03-10 23:55 | 記憶 | Comments(0)

梵鐘を撞く   

熱心な信仰者ではない。佛教の大学を出ているのにお経も詠めない。
信心ということでいえば低レベルであることはまちがいない。
だが、寺院が好きで見歩くことに喜びを感じる。神社にも出かける。
格式や由緒のある寺もいいが、小さな忘れ去られたような寺も好きだ。
廃寺という響きに憧憬を抱く。拝観料は高いな〜と思う方でもある。

過日、某寺の鐘撞き堂の前に立ったとき、
「どなたでもお撞きになってかまいません」と貼り紙があった。
合掌し、鐘を撞いて、また合掌するという作法くらいは知っている。
わずかな賽銭を箱に収めて、撞いてみた。いい音が長く響いた。
撞き終えて、合掌しながら思ったことがあった。

除夜の鐘は108つ撞くのであるが、
煩悩の根本にある三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)を払うものという説と、
1年=12ヶ月と、24節気、72候の合算である108という説、
「四苦八苦」の4×9+8×9の合計数だという説がある。
いずれにしても108だが、当然ながらおれは1回しか撞かなかった。

今年亡くなった方達のことを思い出した。
2012年は芸能関係の人々が多く亡くなった年だった。
表舞台に立っていた方々ばかりだから目立つのではあるが。
二谷英明、太平シロー、淡島千景、ホイットニー・ヒューストン、
安岡力也、吉本隆明、尾崎紀世彦、新藤兼人、伊藤エミ、小野ヤスシ、
地井武男、山田五十鈴、山本美香、津島恵子、春日野八千代、
島田和夫、大滝秀治、馬渕晴子、丸谷才一、桑名正博、桜井センリ、
若松孝二、森光子、牧野エミ、デイブ・ブルーベック、
そして先日、中村勘三郎が身罷った。

勘三郎の息子・中村勘九郎は南座の舞台で、
「父のことを忘れないでください」と頭を下げた。
「もちろんだ」という人が多かったと思う。
同じように、今年亡くなった方達でも「忘れない人」がそれぞれいる。
死とは、忘れないことによって、生に転化するものかもしれない。
死は忘却ではない。残った者が憶え、語り、想像することで今も生きる。
そういう可能性があるのではないか。

スーザン・ソンタグという作家で批評家で映画制作者がいた。
彼女の書いたものを何冊か読んでいる。
最近『私は生まれなおしている---日記とノート 1947-1963』が刊行された。
14歳から30歳までの日記である。
東欧系ユダヤ人の移民としてニューヨークに生まれた彼女は、
早熟で、知的で、激しい人生を生き、2004年に71歳で亡くなった。
日記なので散文的だが、それであるがゆえに彼女の内面が透視できる。
この本の序文に、彼女の息子がこのようなことを書いている。
「彼女は自分の日記を本にするのはいやがっただろう」
「私(息子)も望んでいなかった」(手元に本がないので詳細は不明)。
だが、ソンタグの本を読み続けてきた者としてこの日記は興味深い。
読んでいるかぎり、彼女は生きている。
さらに続編として2冊の日記が刊行されるという。
1963年以降、彼女が活躍しはじめた時期の日記だ。
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亡くなった芸能人は、新しい舞台に立てない。
作家は新刊を出さない。音楽家は新曲を発表できない。
それが死である。
だが、記録されて残っているものから推測することができる。
「あの人ならこう考え、語っただろう」と想像することができる。
それは愚かなことかもしれないが、視座をひとつくれるような気がする。
自分の狭小な思考に異なる立場からの視点を与えてくれる。
それが「忘れない」ことの本質と関わっていることではないかと思う。

母が危篤状態に陥ったとき、おれは母のたどってきた道をくりかえし思った。
憶えのない大正時代から戦前の若かりし青春時代、そして戦争。
その頃住んでいた福井市は空襲で焼かれ、さらに昭和23年に地震が襲う。
旧弊な家を飛び出して滋賀県の東レ工場で寮生活をして家に仕送りし、
やがて京都に暮らし、箕面の借家に引っ越して来てようやく結婚……
決して幸福な人生ではなかった母に幸運をもたらした病み上がりの父、
それから後は、おおむね幸せな生活を送ってきたはずである。
おれという出来の悪い息子を持ったこと以外は。
そうした母の人生を、病院からの帰路、
阪急電車のシートや梅田の雑踏のなかで思い出していた。
奇跡の復活をした今、そのときのことは遠い過去の一コマのように思える。
たった2ヶ月前くらいのことなのに。

鐘を撞きながら、「忘れない人」のことをおれはどれだけ思ったのだろう。
今年に旅立った人たちだけではなく、
かつての仲間たちのことも次々と思い出された。
そして「忘れない」ということを自分なりに証明していくこと、
それが残った者がすべきことではないかと思った。
「オヤジならこう言う」「わたるならこんな風にツッコむ」
「あみちゃんはきっとこう言う」……愚行かもしれないがふと想像している。

寒風のなかを歩けば、青空が目にしみる。
どこにもいない者たちに言葉をかけてみる。
きっと彼らは笑っているだろう。
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by kazeyashiki | 2012-12-09 13:07 | 記憶 | Comments(0)

死の山脈   

劇団創立当初からしばらく音響を担当してくれた島田誠彦。
やはり初期から舞台の上でも、裏でも頑張っていた亜己婆。
二人はすでにこの世ではなく、虚空に居る。
二人の記憶と現在を一本の芝居にしたいとずっと思っている。
しかし時期がどんどんずれていく。これはおれの責任である。

この世にいない彼らに対してメッセージを送りたい。
もちろん彼らには届かない。
だが、彼らのことを思っているこちら側の人たちに届く、
そう信じている。
二人ともおれは死に目にも会えず、葬儀にも参列できなかった。

あれは梅雨入りする前、2010年6月のこと。
島田誠彦の訃報を、東京で受け取った。電話で報せられた。
帰るに帰れない事情があった。たった2時間半の距離だというのに。

亜己婆は、病院で一人で死んだ。
体の調子が悪くて入院し、友人が見舞い、元気な様子を確認した。
だが2週間後に見舞ったら、2日前に亡くなっていた。



おれの周囲に山脈のように、死の山なみがつづいている。
それは2004年のオヤジの死から隆起しはじめたように思う。
オヤジの死は活火山のようにいきなり地平が隆起した。
高い山だった。
麓にいたおれは、その山容をちゃんと眺めることができなかった。

それから4年後の秋、少年時代からのなつかしい友を失った。
悩み抜いたすえに選んだ死だった。
その半年前に会ったとき、「あの唄をうたってくれ」と言われた。
中学時代によく歌っていた、せつない感じの唄だった。
彼はじっとおれの唄を聴いていてくれた。

翌年の3月、
アジア諸国へ共に出かけて映像を制作したカメラマンが、
長い闘病の果てに亡くなった。還暦を迎えたばかりだった。
このブログに貼っているおれの写真、
これはインドのゴカックにある宿舎の庭先で、
カメラマンが撮ってくれたものだ。
彼は子どもたちに人気があった。
ベトナムの撮影時、「モーおじさん」と親しまれた。

そして3ヶ月後の6月、島田誠彦が急死した。

さらにその数日後、かつて農業関係の仕事で、
日本各地へ撮影に一緒に出かけたプロデューサーが、
63歳という年齢で逝ってしまった。
いくつもの約束を残して。

2010年になり、西天満一座の仲間ワタルが逝ってしまった。
太融寺のBarで、ぷよねこ氏へ掛かってきた電話で報せられた。
すぐにアフターアワーズに向かい、岩田さんに告げた。
彼女は絶句し、涙を流した。
店を出るとき、マスターが心細げに目頭を弛ませていた。
ワタルのことは語り尽くせない。
書き出せばさまざまなことが甦り、つながり、連鎖していく。
また改めて書きたい。

翌11月、幻実劇場の遊さんが亡くなり、
さらに同月、北野病院に入院中の阿部さんが逝ってしまった。
阿部さんは多くの人に愛された人物だし、
おれが書くべきことなどないに等しいのだが、
一度だけ2人で飲んだことがあった。
たまたま居酒屋で出会ったのだった。
今はなき東通りの「正宗屋」。
カウンター席でおれが独酌していると、阿部さんが来た。
「おう」といって隣の席に座り、
瓶ビールと「アジのフライ」を「糖尿病患者用に」と店主に注文した。
訊ねると「塩気を全然使わぬアジフライ」だという。
本当にそんな調理法ができるのかどうか。
飲みながら、阿部さんの中学高校時代の話を聞いた。
その話は、
『1969年、新宿PIT INNからはじまった あべのぼる自伝』に詳しい。

東北地方を大きな地震と津波が襲い、大勢の人間の生命が失われた。
おれは大きなショックを受け、為すすべもなくジタバタした。
一度に多数の人の生命が失われたという事実が直視できなかった。
だがその事実は真実を証明されていき、途方に暮れ、茫然とした。

その年の3月、
亜己ちゃんは震災のことを知った上で死んでしまった。
話をしたわけではない。
長く会わずにいた。
時々電話で話すことはあった。
亜己ちゃんは携帯電話を持ったのだと嬉しそうに話していた。

山脈を作っているこの人たちの携帯電話とメールアドレスは、
今もおれの携帯アドレスのなかにいる。
消せない。
できれば勝手に消えてくれればいい、などと身勝手に思う。

うねるように、脈々と、おれのなかで〈山〉が形づくられていった。
死の山脈、魔の山のように思えた。

ここ最近、この山脈に母の山が加わるのではないかと思った。
母は死の淵まで歩いていったことだけは確かだ。
境界線ぎりぎりにまで歩を進めた。
おれと妹は確信に近いものを感じ取っていた(はずだ)。
だが主治医がいうように、奇跡のように復活した。
生還というのではなく、復活だ。

人は心のなかに山脈を持っているものなのだろうか。
今はいない人々の記憶の山脈。
悲しいとか、さみしいとか、つらいとかではなく、
生きとし生ける者が必ずたどり着くときに立ち会ったこと、
その時こそ、自分が生きているという証左である。

逝ってしまった者たちへの追想もある。
彼らのなかに記憶されている生きているわれわれ、
ともに共有した出来事、時間がある。喜怒哀楽がある。
死はそれを消去してしまう装置なのではないか。
だが、だから、生きている者は口惜しく、せつない。

島田誠彦と亜己婆へ向けた芝居をすることで、
生きている者は答えのない質問を問いかけるのかもしれない。
それでいいと思う。
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by kazeyashiki | 2012-11-28 15:33 | 記憶 | Comments(0)

むかしの光   

 母は眼も耳も悪くなってしまっているので、署名しなければならないものなどはおれが代筆する。
文字そのものは書けるのだ。よくメモ帳などに作句などしている。決して頭が退化しているわけではなく、署名文書の細かな文字が読めない。それらは主に行政体から届けられるものである。代筆でむろん構わない。

 生年月日を書く欄には、まだ「明治・大正・昭和・平成」と、四つの時代の元号が書かれている。
いずれ明治が、そして大正が消えていくのだろうと思うと、はかない気持ちになる。母は大正生まれである。8年、1919年である。大正に丸印をつけ、12月10日と記す。これはおれと同じ誕生日である。母と息子が同じ誕生日というのも何であるが、いささか気恥ずかしい気がしないでもない。幼い頃は嬉しかったのだが。

 大正8年=1919年は遠いむかしである。だが、この年に生まれた方々は今もカクシャクとしていらっしゃる。御年93歳の人たちはだれかといえば、田端義夫さんバタヤンだ。この人のことを数年前、テレビのワイドショーで見た。「90歳までは歌う」と宣言していて、そのとおり90歳の誕生日に歌ったというものだった。バタヤンは酒も煙草もやらず、発声練習を毎日欠かさないらしい。おそらく今もつづけておられるだろう。アニメーターのやなせたかしさんも同じ年の生まれだ。それと調べてみて分かったのだが、「花はどこへ行った?」のピート・シーガーが健在なことだ。バタヤン同様、90歳の誕生日にニューヨークの大学で歌ったそうだ。

 オヤジは1924年生まれである。つまり母より年下だった。結婚したのは昭和30年で、おれが生まれる前年である。オヤジ33歳、母は37歳である。かなりの晩婚である。事情があった。昭和17年(1942)19歳で兵役についたオヤジは満州に出兵し、さんざん大陸内を移動した挙げ句、病気になり終戦時は上海の病院で迎えた。そして復員できたのが昭和22年。その後、結核を患って和泉砂川の診療院に数年いて、ようやく仕事をしはじめたのが20代後半だった。オヤジにとって結婚は目の前になかった。一方、母は四姉弟の長女で、働いていたことから婚期を逃し、妹たちが先に結婚していくのをみながら、「もう私は結婚なんかせえへん!」とスネていたらしい。つまり縁がなかったのだろう。男という性に一種の懼れを抱いていたようなフシもあったようだ。

 そんな二人が、間に立つ人がいてめでたく結婚。翌年におれが生まれたのだから笑ってしまう。

 オヤジが生まれた1924年は大正13年で子年である。甲子園球場が完成した年でもあり、同年代生まれには安部公房、黒岩重吾、吉行淳之介、吉本隆明、川上宗薫、越路吹雪、淡島千景、乙羽信子、鶴田浩二、春日八郎、三木のり平、力道山、マーロン・ブランドといった人がいる。ご存命の方では、村山富市、山崎豊子、そしてジミー・カーター元米大統領がいる。御年88歳、米寿である。

 オヤジの生年の翌年大正14年(1925)に生まれた人物として、三島由紀夫がいる。今日は氏の命日である。憂国忌として東京では集まりがあったと思うが、メディアでは取り上げられてはいないだろう。三島が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室で決起クーデターを呼びかけたのは今から42年前の昭和45年(1970)のことだ。すでに堆積した過去の靄のなかにある。だがおれは、この三島事件と呼ばれている行動を下敷きにして芝居を書いたことがあって、今も記憶装置のなかに残っていて、ときおり沸き立つように思い出すことがある。もっともこのときおれは中学2年生で、中間試験かなにかで早く帰宅した川西大和の家で、母が「たいへんな事件が起こっているよ」とテレビを指さしたことが第一の記憶だった。だが、そのときおれが読んでいたのが三島の『潮騒』であったことで、少なからずショックを受けた。三島の思想信条、右翼的言動についてはまったく知らなかった。青春文学の作家として『潮騒』や『花ざかりの森』を読みはじめたばかりだったのだ。

 そして20数年を経た1990年代、『神隠しの小径』という戯曲を書いて銀色昆虫館で上演した。戯曲の完成度はよくなかった。だが、この芝居の劇中歌を山崎秀記くんが作ってくれて、これは名曲だった。これにすこし出演してもらった岩田さんや金岡チカヲは今でもこの歌を憶えていてくれて、飲み屋で歌うこともある。戯曲の内容は忘れても、歌は憶え伝えられて残っていく。名曲ゆえに、であると思う。この歌を口ずさむたびに、1970年という薄青い自分がいた時代の匂いと気配を思い出す。同時に、芝居を上演した薄暗い新宿や扇町の劇場の気配が甦ってくる。そしてそこにはいずれも柔らかで弱いひとすじの光が射している。スポットライトではなく、シーリングライトでもなく、ホリゾントでもない。それは音響照明のオペレーションルームから洩れてくる弱々しい電球の光だ。ブルーのゼラチンで電球を覆ったすき間から客席にこぼれ落ちる灯りだ。匂いのするような光である。

 明治大正昭和平成と時代は続いているが、それぞれの時代に生まれた者たちが遺したものがどこかでつながって、引き継がれていく。おれもその路線の上にいるのかもしれない。そういえば今朝見たテレビ番組「題名のない音楽会」で作曲家の宮川泰特集をやっていて、氏の名曲のひとつである「銀色の道」の作られた背景を息子の彬良氏が語っていた。銀色の道とは、泰氏の父が働いていた紋別の炭坑に敷かれたトロッコ線路(鴻紋軌道)が戦争によって供出され、線路の跡に残った轍に夜露が溜まり、月光を浴びてキラキラ輝いている様を歌ったらしい。敷設した線路を剥がし取られる無念さと撤去後の跡の輝き、それが「銀色の道」だと。

♪〜遠い遠い はるかな道は冬の嵐が吹いてるが 谷間の春は花が咲いてる ひとりひとり今日もひとり 銀色のはるかな道〜♪

むかしの光がそこに射している気がする。
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by kazeyashiki | 2012-11-25 23:59 | 記憶 | Comments(0)