カテゴリ:記憶( 24 )   

♪~あの娘をペットにしたくって   

 ♪~あの娘をペットにしたくって

 いきなりこんな歌い出しで始まる「自動車ショー歌」、
これって今の時代なら「あの娘をペットに?、ハラスメントでしょ!」
ということになる。時代のせいにしてはいけない。
だが、これが堂々と歌われていたのである。
作詞は星野哲郎、まさに戦後歌謡曲史に輝くスター作詞家である。
歌ったのは小林旭。1964年に発表された歌だ。

 当時ぼくは8~9歳。自動車に興味を抱き始めた年齢だった。
住んでいる家のとなり町に自動車工場があって(ダイハツだ)、
工場勤務の工員さん(古めかしい言い方か)が住んでおられた。
彼らはごくたまに、製造したばかりのクルマに乗って、
町の中を走り回っていたのだろうか、
真新しいピカピカのクルマが身近にあった。

 隣家は某電機メーカーに勤めるお金持ちで、
うちは、親戚一同で借りていた大正時代建築の一軒家借家だった。
もちろんクルマは所有していなかった(笑)
そのお金持ちの自家用車は、いすゞのヒルマンミンクスで、
ツートンカラーだったが、重々しく丸みのあるセダン。
ぼくはそうしたクルマより、
工員の兄ちゃんたちが乗って来るスポーツタイプに心奪われた。
今思うと、それはコンパーノスパイダーだったと思う。
ダイハツがイタリア風のデザインで出した名車だ。
今見ても、実にカッコいい。

 データを調べると、
エンジンはFE型直列4気筒OHVで、
コンパーノに積まれていたFC型800ccを1000ccに排気量アップ、
さらにソレックス製のツインキャブにより、
最高出力グロス65馬力・最大トルク7.8kgmを発生し、
最高速度145km/h・ゼロヨン18.5秒。
ミッションは4速フロアMTでローギヤード化されていた、とある。
いい音していたんだろうなぁ。

 またあるとき、大阪梅田でスカイライン・スポーツを見た。
1962年に発売された希少なスポーツカーで、
吊り目ライトのプリンス自動車時代の傑作である。
ぼくはこの吊り目が何だか怖かった憶えがある。
「ウルトラQ」にも登場していた。

 ホンダの「エスハチ」、トヨタの「ヨタハチ」は、
走っている姿を見るだけで興奮した。

 小学校の担任の先生がパブリカに乗っていて何度か乗せてもらった。
怒ると怖いが、まるで母親みたいに面倒見のいい先生だった。
パプリカは700ccの軽快なクルマで、結構スピードも出た。
「喋ってたら、80キロ超えていることがあったんよ~」
などとぼくらを驚かした。
パプリカに対抗するように三菱がコルト800を発売して、
工員の兄ちゃんたちは、よその会社のクルマだけど褒めていた。

 町には商用のミゼット(3輪のバイクハンドル!)や、
スバル360、キャロルが走り回っていたし、
初代コルトの三菱500(カエルみたいな顔をしていた)や、
重厚なクラウン、グロリア、セドリックも走っていた。
ぼくはそれらのクルマ全部の名前を言うことができた。

 そして、いすゞからベレットがチューンアップされてGTRとなり、
日産と合併したプリンス自動車はスカイラインGTを発表し、
その後、GTRへと突き進んでいく。

 時代は高度経済成長期。
短い時期の間にクルマはどんどんそのスタイリング、性能を向上させていった。
やがて中学生になったぼくはクルマ工場の隣町から田園町へ引っ越して、
町を走るクルマの名前を覚えられなくなった。
1970年代以降のことだ。

 ♪~ここらでやめてもいいコロナ

ってことなんだろうか(笑)

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by kazeyashiki | 2017-07-14 22:49 | 記憶 | Comments(0)

思い出すこと   

彼とは同じような業界にいながら、あまり接点のない場所での仕事だったので、一緒に部屋にいて作業をするということはなかった。だが、彼の人の良さに惹かれてたまに酒席を共にすることがあった。


まだ彼の会社が立ち上がる前、以前の職場を離れ、当時私が所属していた会社のオフィス内に彼はデスクを設け、会社立ち上げ準備をしていた。愛嬌のある人柄に私はすぐに打ち解けた。コーヒーを淹れるときに彼のカップ(実に可愛らしいアニメか何かのキャラクターのカップだった。彼はそういうカワイイものが案外好きだったなぁ)にも注いでデスクに持って行くと、「あんた、気が利くなあ。やさしいなあ」と言った。言われた方が照れてしまうようなセリフまわしで、笑うしかなかった。彼はそうした一言をすぐに言える、気配りのきく男だった。


夕方、会社が引けて仲間と飲みに行く算段をしていると、彼はいつも「どこ行くん?」と着ぐるみキャラクターのような言い方で言ってきた。飲むこと、食べること、話をすることが好きで、さびしん坊だった。そして安い居酒屋で飲み、その後、カラオケが歌える彼の馴染みの店に行くと、マイクを持った彼は朗々と歌い上げた。これは実にうまい。私たちは瞠目してその姿を眺めていた。そして、〆の歌はいつも彼の「そっと、おやすみ」だった。これも絶品だった。


古いふるい過去のこと、まだ阪神淡路の震災前の話である。


その後、彼の会社の状況について人を介して聞いていた。時代は変わり、映像制作の形態もどんどん変化を遂げ、簡素でクォリティの高い映像がPCで作れるようになり、彼の会社で編集作業をする人達が減り、その結果、会社の経営は厳しくなっていった。それでも彼はがんばった。さまざまな苦しい状況を乗り越えていると聞いた。仲間たちは去って行ったが、それは仕方のないことで、仲間たちは彼のことをずっと大切にしていたのではないか。


二月の末に倒れたと聞いた。処置が遅れ、酸素が途切れてしまったために意識が戻らないとも。彼は天満橋の近くの病院に運び込まれた。それから維持装置によってその生命が保たれていて、ベッドにいることはいるが反応することがないとも。私はしばしば大坂城天守前広場に出掛け、彼がいる病院の建物を眺めた。何とか奇跡よ起こってくれと切願した。桜の花が咲く頃に光明が訪れてくれと願った。やがて城の桜は咲き、花びらが大地に模様を描いた。そして……。


サッカー部の黄色いバッグぶら下げし君やたらとうまい歌に目を見張り

ある夕のお初天神安鮨屋偶然出会いしたがいに疲れ顔して

長々と眠りし君の病室を太閤城より眺めつつ浪花のことは夢のまた夢


内田隆文安らかに新緑萌えてそっとおやすみ


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by kazeyashiki | 2017-04-27 10:29 | 記憶 | Comments(0)

さまざまな死のかたち   

 先ごろ亡くなったムッシュかまやつ氏は、その数日前に亡くなった奥さんのことを知らずに天国への階段を登って行った。かつてムッシュ氏は、「死ぬときに走馬灯のようにいろいろなことが通り過ぎるっていうじゃない」と朋友井上堯之に語っていたが、ムッシュは走馬灯を見たのだろうか?だが、この地上からふわりと浮き上がって飛翔しはじめた時、走馬灯に現れた奥さんが目の前に迎えに来てくれたのだとしたら、ムッシュはさぞ驚き、「君も死んじゃったの?」と悲しみ、やがてゆっくり微笑んだのではないか、と身勝手に想像してしまう。

 今日見たニュースで、まもなく妻を亡くしてしまう夫の結婚相手を求める、というコラムが新聞に載った。書いたのは妻自身である。つまり、もう死にゆく自分が、残された夫の結婚相手を募集するという一文だ。「彼は恋に落ちやすい男性です。私の時も1日でそうなりました」と書き、夫ジェイソンは弁護士で料理やペンキ塗りもうまく、何よりも思いやりのあるパートナーだとアピールする。そして、やがて、まもなく、彼女は天国への階段を登って行った。ジェイソンは、妻の尽力に応えて新たな人と結ばれるのだろうか?いや、そこの話ではない。妻にその文章を書かれた夫の心境が気になるのだ。妻が残した個人宛ではなく、パブリックなメッセージだから周囲の人たちもジェイソンの内面の一部にも侵入して来る。がさつに「で、お前、どうするんだ?」友人なら訊ねてくるだろう。彼がどう答えるか知らない。自分ならどう言うか。

 「死ぬのはいつも他人ばかり」といったのはマルセル・デュシャンだが、それを知ったのは寺山修司の本だった。寺山の横にはいつも死の水脈が横たわっていたような感じがある。若い時に大病を患い、自分のこの惑星での生の時空は他者より長くないことを自覚していたのだろうか。「死ぬのはいつも他人ばかり」の解釈を寺山は、自分の死を量ってくれ、知覚するのは他人だ、と書いていたように思う。

 さまざまな死がそこにある。やがて死がもっと身近になっていくことは生物学的をはじめ、あまたの「~~的」により立証されている。それまでは、「他人ばかり」と感じ続けているだけということか。

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by kazeyashiki | 2017-03-15 23:38 | 記憶 | Comments(0)

記憶の町へ   

大洲に出掛けたのはいつの頃だったろう。まだ学生で、大学紹介のアルバイト、寺院本堂に装飾を備えつけに、仏具店社員の男運転のバンで朝から国道を走り続けて夕方に到着した。

翌朝、宿から城が見えたのをかすかに憶えている。ただ、この写真の天守はまだなく、石垣の上に小さな櫓があっただけだった。大洲の町では、しばらくまえに撮影された寅さん映画の話をくりかえし聞いた。

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寺で脚立に乗り重くてきらびやかな装飾を支え持ち、終わって大洲から宇和島へ走り、午後いっぱい宇和島の町をうろついた。宇和島城の近くの高校のクラブ活動を眺めたりした。

夕方になり、社員に指定された居酒屋に行き梅錦と大皿の塩エビを食べ、酩酊した。居酒屋大将がブルース好きでウエストロードを流し続けた。その仏具店の子息がベース奏者だったから。

帰りがけ、大将は梅錦一升瓶を土産に持たせてくれた。今まだあの店はあるのだろうか。和風の居酒屋の壁に貼られた憂歌団と白桃房のポスターを憶えている。

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by kazeyashiki | 2016-12-16 23:54 | 記憶 | Comments(0)

かき氷    

暑い夏になるとかき氷が食べたくなる。

一昨年までは、母の家に行けばいつもかき氷が出た。
冷蔵庫の製氷だからさほどうまくないのかもしれないが、思い出す味は甘い。

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いらないと断っても作るのだから無理矢理だったが、
作って食べさせることを喜んでいたんだろうなあ。

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by kazeyashiki | 2014-07-28 14:42 | 記憶 | Comments(0)

母の日   

FMを聴きながら仕事をしている。
明日は母の日ということで、いろいろな母の歌が流れてくる。
今はジョン・レノンの「マザー」が、
ついさっきは、清志郎が母に捧げた「デイドリームビリーバー」が。

わが母が亡くなって1ヶ月あまり。
まだおれは母のことを書くことができずにいる。
なにも長い文章を書こうと思っているわけではない。
だけど、どうしてか書けない。
まだ、見えない何かがあって、書き出せないのだ。

生前、母からはさまざまな話を聞いた。
取材みたいにして質問事項を作り、
母がそれに書き込んで答えてくれた十数枚の文書もある。
これをもとに、母の人生を描くこともできるだろう。
だけど、書けないのだった。

先日、谷町花壇で母の日に贈る小さな花の籠を買った。
贈ることはできないからテーブルの上に載っている。

妹は母の夢を見たという。
場所は北海道の駅で、母と父が改札口で待っていたそうだ。
そして二人はクルマでどこかに出かけたとか。
きっと二人が好きだった知床にドライブしているんだろうな。
二人とも生前は出かけたことがなかった知床。
ようやく行けたなあ。

それにしても、花祭りの日に亡くなり、
父の命日に告別式をした母。
縁というものがあるんだと思う。

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by kazeyashiki | 2014-05-10 18:01 | 記憶 | Comments(0)

3年   

あれから3年…。
今日は静かに黙して過ごす。
風景は変わったのだろうけど、変わらないものがあるだろう。
2011年4月から6月にかけての写真を並べることで、
おれなりに思いたい。


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by kazeyashiki | 2014-03-11 10:49 | 記憶 | Comments(0)

垢嘗め   

学生時代のことだ。
後輩のN君が引っ越したというので尋ねて行った。
築10年くらいのマンションで、トイレと風呂がついている。
当時、部屋に個別のトイレ&風呂がある部屋に住むのは高嶺の花……。
仲間はみんな、共同便所&銭湯だった。
さぞかし快適な暮らしかと思いきや、N君は冴えない顔をしている。
聞けば、夜中に風呂場で何か気配がするという。
前の住人に何かあったのでは?と言うのだ。
「いきなり電気をつけて扉を開けるべきだ」と進言したが、
「コワイですよー」と言う。

何日かしてまたN君宅へ行く途中、
近所の酒屋で差し入れを買ったついでに、店のおばさんに聞いてみた。
「あそこのマンション、前は何が建っていたんですか?」
するとおばさんは、
「あそこは風呂屋、銭湯やったんよ」
……合点がいった。
N君の風呂場にいたのは「垢嘗(あかなめ)」だったんだ。
そのことをN君に告げると、弱々しく彼は笑った。

……あれから30余年、
N君はいま、故郷の温泉地にある旅館の支配人である。
きっと風呂場の掃除は徹底するように指示を出していることだろう。
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by kazeyashiki | 2013-03-10 23:55 | 記憶 | Comments(0)

梵鐘を撞く   

熱心な信仰者ではない。佛教の大学を出ているのにお経も詠めない。
信心ということでいえば低レベルであることはまちがいない。
だが、寺院が好きで見歩くことに喜びを感じる。神社にも出かける。
格式や由緒のある寺もいいが、小さな忘れ去られたような寺も好きだ。
廃寺という響きに憧憬を抱く。拝観料は高いな〜と思う方でもある。

過日、某寺の鐘撞き堂の前に立ったとき、
「どなたでもお撞きになってかまいません」と貼り紙があった。
合掌し、鐘を撞いて、また合掌するという作法くらいは知っている。
わずかな賽銭を箱に収めて、撞いてみた。いい音が長く響いた。
撞き終えて、合掌しながら思ったことがあった。

除夜の鐘は108つ撞くのであるが、
煩悩の根本にある三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)を払うものという説と、
1年=12ヶ月と、24節気、72候の合算である108という説、
「四苦八苦」の4×9+8×9の合計数だという説がある。
いずれにしても108だが、当然ながらおれは1回しか撞かなかった。

今年亡くなった方達のことを思い出した。
2012年は芸能関係の人々が多く亡くなった年だった。
表舞台に立っていた方々ばかりだから目立つのではあるが。
二谷英明、太平シロー、淡島千景、ホイットニー・ヒューストン、
安岡力也、吉本隆明、尾崎紀世彦、新藤兼人、伊藤エミ、小野ヤスシ、
地井武男、山田五十鈴、山本美香、津島恵子、春日野八千代、
島田和夫、大滝秀治、馬渕晴子、丸谷才一、桑名正博、桜井センリ、
若松孝二、森光子、牧野エミ、デイブ・ブルーベック、
そして先日、中村勘三郎が身罷った。

勘三郎の息子・中村勘九郎は南座の舞台で、
「父のことを忘れないでください」と頭を下げた。
「もちろんだ」という人が多かったと思う。
同じように、今年亡くなった方達でも「忘れない人」がそれぞれいる。
死とは、忘れないことによって、生に転化するものかもしれない。
死は忘却ではない。残った者が憶え、語り、想像することで今も生きる。
そういう可能性があるのではないか。

スーザン・ソンタグという作家で批評家で映画制作者がいた。
彼女の書いたものを何冊か読んでいる。
最近『私は生まれなおしている---日記とノート 1947-1963』が刊行された。
14歳から30歳までの日記である。
東欧系ユダヤ人の移民としてニューヨークに生まれた彼女は、
早熟で、知的で、激しい人生を生き、2004年に71歳で亡くなった。
日記なので散文的だが、それであるがゆえに彼女の内面が透視できる。
この本の序文に、彼女の息子がこのようなことを書いている。
「彼女は自分の日記を本にするのはいやがっただろう」
「私(息子)も望んでいなかった」(手元に本がないので詳細は不明)。
だが、ソンタグの本を読み続けてきた者としてこの日記は興味深い。
読んでいるかぎり、彼女は生きている。
さらに続編として2冊の日記が刊行されるという。
1963年以降、彼女が活躍しはじめた時期の日記だ。
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亡くなった芸能人は、新しい舞台に立てない。
作家は新刊を出さない。音楽家は新曲を発表できない。
それが死である。
だが、記録されて残っているものから推測することができる。
「あの人ならこう考え、語っただろう」と想像することができる。
それは愚かなことかもしれないが、視座をひとつくれるような気がする。
自分の狭小な思考に異なる立場からの視点を与えてくれる。
それが「忘れない」ことの本質と関わっていることではないかと思う。

母が危篤状態に陥ったとき、おれは母のたどってきた道をくりかえし思った。
憶えのない大正時代から戦前の若かりし青春時代、そして戦争。
その頃住んでいた福井市は空襲で焼かれ、さらに昭和23年に地震が襲う。
旧弊な家を飛び出して滋賀県の東レ工場で寮生活をして家に仕送りし、
やがて京都に暮らし、箕面の借家に引っ越して来てようやく結婚……
決して幸福な人生ではなかった母に幸運をもたらした病み上がりの父、
それから後は、おおむね幸せな生活を送ってきたはずである。
おれという出来の悪い息子を持ったこと以外は。
そうした母の人生を、病院からの帰路、
阪急電車のシートや梅田の雑踏のなかで思い出していた。
奇跡の復活をした今、そのときのことは遠い過去の一コマのように思える。
たった2ヶ月前くらいのことなのに。

鐘を撞きながら、「忘れない人」のことをおれはどれだけ思ったのだろう。
今年に旅立った人たちだけではなく、
かつての仲間たちのことも次々と思い出された。
そして「忘れない」ということを自分なりに証明していくこと、
それが残った者がすべきことではないかと思った。
「オヤジならこう言う」「わたるならこんな風にツッコむ」
「あみちゃんはきっとこう言う」……愚行かもしれないがふと想像している。

寒風のなかを歩けば、青空が目にしみる。
どこにもいない者たちに言葉をかけてみる。
きっと彼らは笑っているだろう。
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by kazeyashiki | 2012-12-09 13:07 | 記憶 | Comments(0)

死の山脈   

劇団創立当初からしばらく音響を担当してくれた島田誠彦。
やはり初期から舞台の上でも、裏でも頑張っていた亜己婆。
二人はすでにこの世ではなく、虚空に居る。
二人の記憶と現在を一本の芝居にしたいとずっと思っている。
しかし時期がどんどんずれていく。これはおれの責任である。

この世にいない彼らに対してメッセージを送りたい。
もちろん彼らには届かない。
だが、彼らのことを思っているこちら側の人たちに届く、
そう信じている。
二人ともおれは死に目にも会えず、葬儀にも参列できなかった。

あれは梅雨入りする前、2010年6月のこと。
島田誠彦の訃報を、東京で受け取った。電話で報せられた。
帰るに帰れない事情があった。たった2時間半の距離だというのに。

亜己婆は、病院で一人で死んだ。
体の調子が悪くて入院し、友人が見舞い、元気な様子を確認した。
だが2週間後に見舞ったら、2日前に亡くなっていた。



おれの周囲に山脈のように、死の山なみがつづいている。
それは2004年のオヤジの死から隆起しはじめたように思う。
オヤジの死は活火山のようにいきなり地平が隆起した。
高い山だった。
麓にいたおれは、その山容をちゃんと眺めることができなかった。

それから4年後の秋、少年時代からのなつかしい友を失った。
悩み抜いたすえに選んだ死だった。
その半年前に会ったとき、「あの唄をうたってくれ」と言われた。
中学時代によく歌っていた、せつない感じの唄だった。
彼はじっとおれの唄を聴いていてくれた。

翌年の3月、
アジア諸国へ共に出かけて映像を制作したカメラマンが、
長い闘病の果てに亡くなった。還暦を迎えたばかりだった。
このブログに貼っているおれの写真、
これはインドのゴカックにある宿舎の庭先で、
カメラマンが撮ってくれたものだ。
彼は子どもたちに人気があった。
ベトナムの撮影時、「モーおじさん」と親しまれた。

そして3ヶ月後の6月、島田誠彦が急死した。

さらにその数日後、かつて農業関係の仕事で、
日本各地へ撮影に一緒に出かけたプロデューサーが、
63歳という年齢で逝ってしまった。
いくつもの約束を残して。

2010年になり、西天満一座の仲間ワタルが逝ってしまった。
太融寺のBarで、ぷよねこ氏へ掛かってきた電話で報せられた。
すぐにアフターアワーズに向かい、岩田さんに告げた。
彼女は絶句し、涙を流した。
店を出るとき、マスターが心細げに目頭を弛ませていた。
ワタルのことは語り尽くせない。
書き出せばさまざまなことが甦り、つながり、連鎖していく。
また改めて書きたい。

翌11月、幻実劇場の遊さんが亡くなり、
さらに同月、北野病院に入院中の阿部さんが逝ってしまった。
阿部さんは多くの人に愛された人物だし、
おれが書くべきことなどないに等しいのだが、
一度だけ2人で飲んだことがあった。
たまたま居酒屋で出会ったのだった。
今はなき東通りの「正宗屋」。
カウンター席でおれが独酌していると、阿部さんが来た。
「おう」といって隣の席に座り、
瓶ビールと「アジのフライ」を「糖尿病患者用に」と店主に注文した。
訊ねると「塩気を全然使わぬアジフライ」だという。
本当にそんな調理法ができるのかどうか。
飲みながら、阿部さんの中学高校時代の話を聞いた。
その話は、
『1969年、新宿PIT INNからはじまった あべのぼる自伝』に詳しい。

東北地方を大きな地震と津波が襲い、大勢の人間の生命が失われた。
おれは大きなショックを受け、為すすべもなくジタバタした。
一度に多数の人の生命が失われたという事実が直視できなかった。
だがその事実は真実を証明されていき、途方に暮れ、茫然とした。

その年の3月、
亜己ちゃんは震災のことを知った上で死んでしまった。
話をしたわけではない。
長く会わずにいた。
時々電話で話すことはあった。
亜己ちゃんは携帯電話を持ったのだと嬉しそうに話していた。

山脈を作っているこの人たちの携帯電話とメールアドレスは、
今もおれの携帯アドレスのなかにいる。
消せない。
できれば勝手に消えてくれればいい、などと身勝手に思う。

うねるように、脈々と、おれのなかで〈山〉が形づくられていった。
死の山脈、魔の山のように思えた。

ここ最近、この山脈に母の山が加わるのではないかと思った。
母は死の淵まで歩いていったことだけは確かだ。
境界線ぎりぎりにまで歩を進めた。
おれと妹は確信に近いものを感じ取っていた(はずだ)。
だが主治医がいうように、奇跡のように復活した。
生還というのではなく、復活だ。

人は心のなかに山脈を持っているものなのだろうか。
今はいない人々の記憶の山脈。
悲しいとか、さみしいとか、つらいとかではなく、
生きとし生ける者が必ずたどり着くときに立ち会ったこと、
その時こそ、自分が生きているという証左である。

逝ってしまった者たちへの追想もある。
彼らのなかに記憶されている生きているわれわれ、
ともに共有した出来事、時間がある。喜怒哀楽がある。
死はそれを消去してしまう装置なのではないか。
だが、だから、生きている者は口惜しく、せつない。

島田誠彦と亜己婆へ向けた芝居をすることで、
生きている者は答えのない質問を問いかけるのかもしれない。
それでいいと思う。
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by kazeyashiki | 2012-11-28 15:33 | 記憶 | Comments(0)