カテゴリ:記憶( 25 )   

ときどき見る芝居の夢   

時々、芝居の夢を見る。

今回の公演場所は異国、おそらくシンガポールに近い観光都市で、出し物は、これまで日本で公演してきた演目。ゆえにセットの組み立てとか照明、音響装置の配置などに時間をかけて、舞台稽古は少しだけしかやっていない。

まもなく開場ということになり、今回は出演していない銀昆のメンバーたちが見に来るのを迎えている。遠い距離をやって来るのだから感謝の気持ちもある。田島君は裏方で、走り回っている。ぼくは出演する役者~日本人が少なく、現地の人たちが多い~に最終的な確認などをおこなっている。

劇場は大きな倉庫のようなところで、100人以上入るようだ。「こんなに広くて大丈夫かな」と感じている。照明音響オペ室に行くと絵所さんが仕切っていて、 何も問題はないと安心する。また、劇場への入口にはいくつかの屋台が出ていて、現地の辛そうな料理や飲み物などを販売している。すべて現地人で、ぼくと目が合うと笑う。焦る気持ちが和む

いよいよ開場となってお客さんが入って来る。和田君が仕切っている。「あまり多くないですよお客さん」などと言いながら、あっちゃんと共に動き回っている。彼らは出演はしないし、数時間前に現地に到着したばかりで、手伝ってくれている。ガムランのような音楽が遠くからずっと流れていて、本当にここは日本から遠くはなれた場所なのだと感じている。客の入りは7~8割だろうか。知った顔がちらほらいる。みんな観光でこの場所に来て、そのついでに公演を見に来てくれたのだ。

いよいよ開演となり、暗転 する。ひとりの青年がスポットライトに浮かび上がり、ゆっくりとした踊りを舞う。やはり鳴っている音楽は東南アジア風のもので、ぼく自身初めて聞く音楽だが、違和感を抱いていない。もしかしたらぼくは知己の劇団公演の手伝いをしているだけなのかもしれない。だが、山崎ヒデキ作曲の唄が流れ出すと、そこは西部講堂に豹変する。長い花道を傘を差した女が歩いて出て来る。下駄の音がし、浴衣姿だ。光が強くなるとそれが信美ちゃんだと判明する。セリフは聞き取れない。ぼくは段取りをするために暗幕で仕切られた細い通路を通り抜けつつある。観客がざわめく。何が起こっているのか分からないが、暗闇のなかでおそらくダニーだと思うのだが、「ウケましたね」と剽軽な声を出す。裏で、銀色の大 きな皿を何枚も用意し、その上に料理のようなものを載せる準備をしていると、劇団や芝居とは全然関係のない、最近知り合いになった男が「大変ですね」と手伝ってくれる。

やがて終演。

終わった劇場で食事会が開かれる。大きなテーブルが並び、大勢の観客がそのまま残っている。アジア産の缶ビールが並べられ、大皿料理が盛りつけられていて、いったいいつの間にこんな準備ができたのだろうとふしぎな気持ちになっている。ふと横を見ると長江君が座っていて、「ビール?」と聞くと、長江君は「ぼくは最初から焼酎を飲みます」と答えた。

いざ乾杯となる前に、ぼくは誰かに呼び出されて雑誌の取材を受ける。日本人もいるが、異国人もいて、通訳があれこれと聞いてくるのだが、芝居と関係のない話が 多くて、笑うしかないので笑っている。気がついて劇場に戻ると、打ち上げはすでに終わっていて、バラシの最中。観客も役者もすでにいなくて、ぼくも次の場所へ移動する時間が迫ってきている。なんだなんだ、時間の経過が早すぎではないか!と夢の中で自分の夢に文句を言っている。つまりこれが夢であると自覚しているのだ。だが、そのまま便乗というか、続きを見てやろうと意識を戻す。

仲間はどこにいるのか?と見渡すと、田島君はバラシを続けていて、顔を合わすと「次の場所への移動はクルマか飛行機ですぜ」などと教えてくれる。長江君と信美ちゃんはもう帰ったという。すると電話が鳴り、和田君からだ。今、近くにいるのだが、このまま夫婦でヨーロッパ方面へ遊びに行くという。「それはい いね」と答えた。劇場の周囲を所在なく歩いていると日本人観光客が多く、地下鉄で移動しようと地下入口を進むと、そこは地下鉄ではなく地下劇場で、ぼくはまたここで芝居をするのだと妙に納得してしまう。

そこで目が覚めた。

[PR]

by kazeyashiki | 2017-10-05 14:03 | 記憶 | Comments(0)

♪~あの娘をペットにしたくって   

 ♪~あの娘をペットにしたくって

 いきなりこんな歌い出しで始まる「自動車ショー歌」、
これって今の時代なら「あの娘をペットに?、ハラスメントでしょ!」
ということになる。時代のせいにしてはいけない。
だが、これが堂々と歌われていたのである。
作詞は星野哲郎、まさに戦後歌謡曲史に輝くスター作詞家である。
歌ったのは小林旭。1964年に発表された歌だ。

 当時ぼくは8~9歳。自動車に興味を抱き始めた年齢だった。
住んでいる家のとなり町に自動車工場があって(ダイハツだ)、
工場勤務の工員さん(古めかしい言い方か)が住んでおられた。
彼らはごくたまに、製造したばかりのクルマに乗って、
町の中を走り回っていたのだろうか、
真新しいピカピカのクルマが身近にあった。

 隣家は某電機メーカーに勤めるお金持ちで、
うちは、親戚一同で借りていた大正時代建築の一軒家借家だった。
もちろんクルマは所有していなかった(笑)
そのお金持ちの自家用車は、いすゞのヒルマンミンクスで、
ツートンカラーだったが、重々しく丸みのあるセダン。
ぼくはそうしたクルマより、
工員の兄ちゃんたちが乗って来るスポーツタイプに心奪われた。
今思うと、それはコンパーノスパイダーだったと思う。
ダイハツがイタリア風のデザインで出した名車だ。
今見ても、実にカッコいい。

 データを調べると、
エンジンはFE型直列4気筒OHVで、
コンパーノに積まれていたFC型800ccを1000ccに排気量アップ、
さらにソレックス製のツインキャブにより、
最高出力グロス65馬力・最大トルク7.8kgmを発生し、
最高速度145km/h・ゼロヨン18.5秒。
ミッションは4速フロアMTでローギヤード化されていた、とある。
いい音していたんだろうなぁ。

 またあるとき、大阪梅田でスカイライン・スポーツを見た。
1962年に発売された希少なスポーツカーで、
吊り目ライトのプリンス自動車時代の傑作である。
ぼくはこの吊り目が何だか怖かった憶えがある。
「ウルトラQ」にも登場していた。

 ホンダの「エスハチ」、トヨタの「ヨタハチ」は、
走っている姿を見るだけで興奮した。

 小学校の担任の先生がパブリカに乗っていて何度か乗せてもらった。
怒ると怖いが、まるで母親みたいに面倒見のいい先生だった。
パプリカは700ccの軽快なクルマで、結構スピードも出た。
「喋ってたら、80キロ超えていることがあったんよ~」
などとぼくらを驚かした。
パプリカに対抗するように三菱がコルト800を発売して、
工員の兄ちゃんたちは、よその会社のクルマだけど褒めていた。

 町には商用のミゼット(3輪のバイクハンドル!)や、
スバル360、キャロルが走り回っていたし、
初代コルトの三菱500(カエルみたいな顔をしていた)や、
重厚なクラウン、グロリア、セドリックも走っていた。
ぼくはそれらのクルマ全部の名前を言うことができた。

 そして、いすゞからベレットがチューンアップされてGTRとなり、
日産と合併したプリンス自動車はスカイラインGTを発表し、
その後、GTRへと突き進んでいく。

 時代は高度経済成長期。
短い時期の間にクルマはどんどんそのスタイリング、性能を向上させていった。
やがて中学生になったぼくはクルマ工場の隣町から田園町へ引っ越して、
町を走るクルマの名前を覚えられなくなった。
1970年代以降のことだ。

 ♪~ここらでやめてもいいコロナ

ってことなんだろうか(笑)

[PR]

by kazeyashiki | 2017-07-14 22:49 | 記憶 | Comments(0)

思い出すこと   

彼とは同じような業界にいながら、あまり接点のない場所での仕事だったので、一緒に部屋にいて作業をするということはなかった。だが、彼の人の良さに惹かれてたまに酒席を共にすることがあった。


まだ彼の会社が立ち上がる前、以前の職場を離れ、当時私が所属していた会社のオフィス内に彼はデスクを設け、会社立ち上げ準備をしていた。愛嬌のある人柄に私はすぐに打ち解けた。コーヒーを淹れるときに彼のカップ(実に可愛らしいアニメか何かのキャラクターのカップだった。彼はそういうカワイイものが案外好きだったなぁ)にも注いでデスクに持って行くと、「あんた、気が利くなあ。やさしいなあ」と言った。言われた方が照れてしまうようなセリフまわしで、笑うしかなかった。彼はそうした一言をすぐに言える、気配りのきく男だった。


夕方、会社が引けて仲間と飲みに行く算段をしていると、彼はいつも「どこ行くん?」と着ぐるみキャラクターのような言い方で言ってきた。飲むこと、食べること、話をすることが好きで、さびしん坊だった。そして安い居酒屋で飲み、その後、カラオケが歌える彼の馴染みの店に行くと、マイクを持った彼は朗々と歌い上げた。これは実にうまい。私たちは瞠目してその姿を眺めていた。そして、〆の歌はいつも彼の「そっと、おやすみ」だった。これも絶品だった。


古いふるい過去のこと、まだ阪神淡路の震災前の話である。


その後、彼の会社の状況について人を介して聞いていた。時代は変わり、映像制作の形態もどんどん変化を遂げ、簡素でクォリティの高い映像がPCで作れるようになり、彼の会社で編集作業をする人達が減り、その結果、会社の経営は厳しくなっていった。それでも彼はがんばった。さまざまな苦しい状況を乗り越えていると聞いた。仲間たちは去って行ったが、それは仕方のないことで、仲間たちは彼のことをずっと大切にしていたのではないか。


二月の末に倒れたと聞いた。処置が遅れ、酸素が途切れてしまったために意識が戻らないとも。彼は天満橋の近くの病院に運び込まれた。それから維持装置によってその生命が保たれていて、ベッドにいることはいるが反応することがないとも。私はしばしば大坂城天守前広場に出掛け、彼がいる病院の建物を眺めた。何とか奇跡よ起こってくれと切願した。桜の花が咲く頃に光明が訪れてくれと願った。やがて城の桜は咲き、花びらが大地に模様を描いた。そして……。


サッカー部の黄色いバッグぶら下げし君やたらとうまい歌に目を見張り

ある夕のお初天神安鮨屋偶然出会いしたがいに疲れ顔して

長々と眠りし君の病室を太閤城より眺めつつ浪花のことは夢のまた夢


内田隆文安らかに新緑萌えてそっとおやすみ


[PR]

by kazeyashiki | 2017-04-27 10:29 | 記憶 | Comments(0)

さまざまな死のかたち   

 先ごろ亡くなったムッシュかまやつ氏は、その数日前に亡くなった奥さんのことを知らずに天国への階段を登って行った。かつてムッシュ氏は、「死ぬときに走馬灯のようにいろいろなことが通り過ぎるっていうじゃない」と朋友井上堯之に語っていたが、ムッシュは走馬灯を見たのだろうか?だが、この地上からふわりと浮き上がって飛翔しはじめた時、走馬灯に現れた奥さんが目の前に迎えに来てくれたのだとしたら、ムッシュはさぞ驚き、「君も死んじゃったの?」と悲しみ、やがてゆっくり微笑んだのではないか、と身勝手に想像してしまう。

 今日見たニュースで、まもなく妻を亡くしてしまう夫の結婚相手を求める、というコラムが新聞に載った。書いたのは妻自身である。つまり、もう死にゆく自分が、残された夫の結婚相手を募集するという一文だ。「彼は恋に落ちやすい男性です。私の時も1日でそうなりました」と書き、夫ジェイソンは弁護士で料理やペンキ塗りもうまく、何よりも思いやりのあるパートナーだとアピールする。そして、やがて、まもなく、彼女は天国への階段を登って行った。ジェイソンは、妻の尽力に応えて新たな人と結ばれるのだろうか?いや、そこの話ではない。妻にその文章を書かれた夫の心境が気になるのだ。妻が残した個人宛ではなく、パブリックなメッセージだから周囲の人たちもジェイソンの内面の一部にも侵入して来る。がさつに「で、お前、どうするんだ?」友人なら訊ねてくるだろう。彼がどう答えるか知らない。自分ならどう言うか。

 「死ぬのはいつも他人ばかり」といったのはマルセル・デュシャンだが、それを知ったのは寺山修司の本だった。寺山の横にはいつも死の水脈が横たわっていたような感じがある。若い時に大病を患い、自分のこの惑星での生の時空は他者より長くないことを自覚していたのだろうか。「死ぬのはいつも他人ばかり」の解釈を寺山は、自分の死を量ってくれ、知覚するのは他人だ、と書いていたように思う。

 さまざまな死がそこにある。やがて死がもっと身近になっていくことは生物学的をはじめ、あまたの「~~的」により立証されている。それまでは、「他人ばかり」と感じ続けているだけということか。

[PR]

by kazeyashiki | 2017-03-15 23:38 | 記憶 | Comments(0)

記憶の町へ   

大洲に出掛けたのはいつの頃だったろう。まだ学生で、大学紹介のアルバイト、寺院本堂に装飾を備えつけに、仏具店社員の男運転のバンで朝から国道を走り続けて夕方に到着した。

翌朝、宿から城が見えたのをかすかに憶えている。ただ、この写真の天守はまだなく、石垣の上に小さな櫓があっただけだった。大洲の町では、しばらくまえに撮影された寅さん映画の話をくりかえし聞いた。

a0193496_23494339.jpg

寺で脚立に乗り重くてきらびやかな装飾を支え持ち、終わって大洲から宇和島へ走り、午後いっぱい宇和島の町をうろついた。宇和島城の近くの高校のクラブ活動を眺めたりした。

夕方になり、社員に指定された居酒屋に行き梅錦と大皿の塩エビを食べ、酩酊した。居酒屋大将がブルース好きでウエストロードを流し続けた。その仏具店の子息がベース奏者だったから。

帰りがけ、大将は梅錦一升瓶を土産に持たせてくれた。今まだあの店はあるのだろうか。和風の居酒屋の壁に貼られた憂歌団と白桃房のポスターを憶えている。

[PR]

by kazeyashiki | 2016-12-16 23:54 | 記憶 | Comments(0)

かき氷    

暑い夏になるとかき氷が食べたくなる。

一昨年までは、母の家に行けばいつもかき氷が出た。
冷蔵庫の製氷だからさほどうまくないのかもしれないが、思い出す味は甘い。

a0193496_1437448.jpg


いらないと断っても作るのだから無理矢理だったが、
作って食べさせることを喜んでいたんだろうなあ。

a0193496_14411763.jpg

[PR]

by kazeyashiki | 2014-07-28 14:42 | 記憶 | Comments(0)

母の日   

FMを聴きながら仕事をしている。
明日は母の日ということで、いろいろな母の歌が流れてくる。
今はジョン・レノンの「マザー」が、
ついさっきは、清志郎が母に捧げた「デイドリームビリーバー」が。

わが母が亡くなって1ヶ月あまり。
まだおれは母のことを書くことができずにいる。
なにも長い文章を書こうと思っているわけではない。
だけど、どうしてか書けない。
まだ、見えない何かがあって、書き出せないのだ。

生前、母からはさまざまな話を聞いた。
取材みたいにして質問事項を作り、
母がそれに書き込んで答えてくれた十数枚の文書もある。
これをもとに、母の人生を描くこともできるだろう。
だけど、書けないのだった。

先日、谷町花壇で母の日に贈る小さな花の籠を買った。
贈ることはできないからテーブルの上に載っている。

妹は母の夢を見たという。
場所は北海道の駅で、母と父が改札口で待っていたそうだ。
そして二人はクルマでどこかに出かけたとか。
きっと二人が好きだった知床にドライブしているんだろうな。
二人とも生前は出かけたことがなかった知床。
ようやく行けたなあ。

それにしても、花祭りの日に亡くなり、
父の命日に告別式をした母。
縁というものがあるんだと思う。

a0193496_1801052.jpg

[PR]

by kazeyashiki | 2014-05-10 18:01 | 記憶 | Comments(0)

3年   

あれから3年…。
今日は静かに黙して過ごす。
風景は変わったのだろうけど、変わらないものがあるだろう。
2011年4月から6月にかけての写真を並べることで、
おれなりに思いたい。


a0193496_10463230.jpg

a0193496_10464896.jpg

a0193496_1047692.jpg

a0193496_1047441.jpg

a0193496_10471434.jpg

a0193496_10473274.jpg

a0193496_10481198.jpg

a0193496_1048792.jpg

[PR]

by kazeyashiki | 2014-03-11 10:49 | 記憶 | Comments(0)

垢嘗め   

学生時代のことだ。
後輩のN君が引っ越したというので尋ねて行った。
築10年くらいのマンションで、トイレと風呂がついている。
当時、部屋に個別のトイレ&風呂がある部屋に住むのは高嶺の花……。
仲間はみんな、共同便所&銭湯だった。
さぞかし快適な暮らしかと思いきや、N君は冴えない顔をしている。
聞けば、夜中に風呂場で何か気配がするという。
前の住人に何かあったのでは?と言うのだ。
「いきなり電気をつけて扉を開けるべきだ」と進言したが、
「コワイですよー」と言う。

何日かしてまたN君宅へ行く途中、
近所の酒屋で差し入れを買ったついでに、店のおばさんに聞いてみた。
「あそこのマンション、前は何が建っていたんですか?」
するとおばさんは、
「あそこは風呂屋、銭湯やったんよ」
……合点がいった。
N君の風呂場にいたのは「垢嘗(あかなめ)」だったんだ。
そのことをN君に告げると、弱々しく彼は笑った。

……あれから30余年、
N君はいま、故郷の温泉地にある旅館の支配人である。
きっと風呂場の掃除は徹底するように指示を出していることだろう。
a0193496_8501823.jpg

[PR]

by kazeyashiki | 2013-03-10 23:55 | 記憶 | Comments(0)

梵鐘を撞く   

熱心な信仰者ではない。佛教の大学を出ているのにお経も詠めない。
信心ということでいえば低レベルであることはまちがいない。
だが、寺院が好きで見歩くことに喜びを感じる。神社にも出かける。
格式や由緒のある寺もいいが、小さな忘れ去られたような寺も好きだ。
廃寺という響きに憧憬を抱く。拝観料は高いな〜と思う方でもある。

過日、某寺の鐘撞き堂の前に立ったとき、
「どなたでもお撞きになってかまいません」と貼り紙があった。
合掌し、鐘を撞いて、また合掌するという作法くらいは知っている。
わずかな賽銭を箱に収めて、撞いてみた。いい音が長く響いた。
撞き終えて、合掌しながら思ったことがあった。

除夜の鐘は108つ撞くのであるが、
煩悩の根本にある三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)を払うものという説と、
1年=12ヶ月と、24節気、72候の合算である108という説、
「四苦八苦」の4×9+8×9の合計数だという説がある。
いずれにしても108だが、当然ながらおれは1回しか撞かなかった。

今年亡くなった方達のことを思い出した。
2012年は芸能関係の人々が多く亡くなった年だった。
表舞台に立っていた方々ばかりだから目立つのではあるが。
二谷英明、太平シロー、淡島千景、ホイットニー・ヒューストン、
安岡力也、吉本隆明、尾崎紀世彦、新藤兼人、伊藤エミ、小野ヤスシ、
地井武男、山田五十鈴、山本美香、津島恵子、春日野八千代、
島田和夫、大滝秀治、馬渕晴子、丸谷才一、桑名正博、桜井センリ、
若松孝二、森光子、牧野エミ、デイブ・ブルーベック、
そして先日、中村勘三郎が身罷った。

勘三郎の息子・中村勘九郎は南座の舞台で、
「父のことを忘れないでください」と頭を下げた。
「もちろんだ」という人が多かったと思う。
同じように、今年亡くなった方達でも「忘れない人」がそれぞれいる。
死とは、忘れないことによって、生に転化するものかもしれない。
死は忘却ではない。残った者が憶え、語り、想像することで今も生きる。
そういう可能性があるのではないか。

スーザン・ソンタグという作家で批評家で映画制作者がいた。
彼女の書いたものを何冊か読んでいる。
最近『私は生まれなおしている---日記とノート 1947-1963』が刊行された。
14歳から30歳までの日記である。
東欧系ユダヤ人の移民としてニューヨークに生まれた彼女は、
早熟で、知的で、激しい人生を生き、2004年に71歳で亡くなった。
日記なので散文的だが、それであるがゆえに彼女の内面が透視できる。
この本の序文に、彼女の息子がこのようなことを書いている。
「彼女は自分の日記を本にするのはいやがっただろう」
「私(息子)も望んでいなかった」(手元に本がないので詳細は不明)。
だが、ソンタグの本を読み続けてきた者としてこの日記は興味深い。
読んでいるかぎり、彼女は生きている。
さらに続編として2冊の日記が刊行されるという。
1963年以降、彼女が活躍しはじめた時期の日記だ。
a0193496_1364096.jpg

亡くなった芸能人は、新しい舞台に立てない。
作家は新刊を出さない。音楽家は新曲を発表できない。
それが死である。
だが、記録されて残っているものから推測することができる。
「あの人ならこう考え、語っただろう」と想像することができる。
それは愚かなことかもしれないが、視座をひとつくれるような気がする。
自分の狭小な思考に異なる立場からの視点を与えてくれる。
それが「忘れない」ことの本質と関わっていることではないかと思う。

母が危篤状態に陥ったとき、おれは母のたどってきた道をくりかえし思った。
憶えのない大正時代から戦前の若かりし青春時代、そして戦争。
その頃住んでいた福井市は空襲で焼かれ、さらに昭和23年に地震が襲う。
旧弊な家を飛び出して滋賀県の東レ工場で寮生活をして家に仕送りし、
やがて京都に暮らし、箕面の借家に引っ越して来てようやく結婚……
決して幸福な人生ではなかった母に幸運をもたらした病み上がりの父、
それから後は、おおむね幸せな生活を送ってきたはずである。
おれという出来の悪い息子を持ったこと以外は。
そうした母の人生を、病院からの帰路、
阪急電車のシートや梅田の雑踏のなかで思い出していた。
奇跡の復活をした今、そのときのことは遠い過去の一コマのように思える。
たった2ヶ月前くらいのことなのに。

鐘を撞きながら、「忘れない人」のことをおれはどれだけ思ったのだろう。
今年に旅立った人たちだけではなく、
かつての仲間たちのことも次々と思い出された。
そして「忘れない」ということを自分なりに証明していくこと、
それが残った者がすべきことではないかと思った。
「オヤジならこう言う」「わたるならこんな風にツッコむ」
「あみちゃんはきっとこう言う」……愚行かもしれないがふと想像している。

寒風のなかを歩けば、青空が目にしみる。
どこにもいない者たちに言葉をかけてみる。
きっと彼らは笑っているだろう。
[PR]

by kazeyashiki | 2012-12-09 13:07 | 記憶 | Comments(0)