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真珠の涙   

一概にはいえないのだが、南相馬の町をクルマで走っていると、交通量は多いのだが歩いている人の多くは中高年層が多い。子どもや学生の姿、もちろん乳児を連れた母親の姿などはまったく見なかった。長期滞在したわけではないので断言はできないけれど、「道の駅南相馬」にモノを買い求めに来る人たちは、中高年が多かった。あるいは復興のために従事している作業服の人たち。
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店内ではわずかな地産の野菜と、漬け物などの名産品、弁当などが販売されていて、作業服の人たちが買い求めていく。ぼくもここで幕の内弁当を買って、気持ちのいい風の吹く屋外で食べた。レジには若い女性と中年女性がいて、テキパキと働いておられた。印象でいえば、どこにでもある「道の駅」の業務風景ではある。「立ち入りができない区域までどのくらいありますか?」と女性に尋ねてみた。「だいたい2キロか3キロ先でしょうかね。行っちゃダメだよ」と笑いかけた。

弁当を食べ終えて一服していると、作業服のぼくより年上の男が「仕事か?」と聞いてきた。通りすがりであり、南相馬の農地の様子はどうなのか見に来た旨を告げると、「田んぼはいかんだろ。ガレキがそのまま残ってるし、町のガレキを海沿いの田んぼだったところに運んで山積みしているからなあ」と教えてくれた。まだぼくは南相馬に到着したばかりだった。どのあたりまでなら行けるか教えてもらい、彼らが電気工事の仕事で栃木から来ていること、東京電力福島第一原発から30キロ圏内にも入り込んで作業をしていること、放射能についての雑感などを話してくれた。「だれのいうことが正しいのか、さっぱりわかんないからねー」朴訥な栃木弁で話す彼らにありがとうと告げて、教えられた海岸沿いの田んぼへ向かった。
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4月に来たときに案内表示のあった右田浜海水浴場付近には多くの水田があり、海に近づくにつれ、民宿やバンガローなどの建物のコンクリートの土台だけが残っている。ここはキャンプ場だった。
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地盤沈下のせいで、田んぼには海水が貯まったままになっている。
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岸壁でユンボ作業をしている人がいて、たったひとりで堤防横を整地していた。クルマを降りて砂浜に向かう。目の前が開け、海が見えた。白い波が寄せては返している。この海から津波がやって来たのだ。
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おびただしい木片が埋まった砂浜に座り、タバコを喫った。波音が聞こえ、目を閉じればそこは穏やかな海水浴場だ。

ふと、ザ・スパイダースの「真珠の涙」という古い唄を思い出す。
「朝の渚でひとりたたずむ ぼくの涙は冷たい真珠 
 小さな愛が、愛が結べず 海の底から帰らない人」
なんだかこの歌詞、暗喩的です。



1時間くらい砂浜に座っていた。だれにも会わなかった。
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by kazeyashiki | 2011-06-30 17:00 | 世界 | Comments(0)

今日、ずっと流れていた歌   

地下鉄谷町線に乗って東梅田経由、御堂筋線で桃山台まで。
そこから阪急バスで母宅へ向かった。
暑く、空は青く、気持ちよかった。

Facebookに、
「今日みたいに、暑くて、空が青い日は、
 高速を走って、山奥の温泉場にでも行きたくなる。
 湯上がりにラムネ飲んで、風通る縁台に寝転んでしまうと、うたた寝必定だ。」
と書いたら、「いいね!」を6人の人がつけてくれた。

朝起きてから、ずっと頭のなかで流れていたのがこの歌。
なぜだか分からない。
一時、よくルー・リードを聴いていたなぁ。


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by kazeyashiki | 2011-06-28 23:00 | 暮らし | Comments(0)

飯舘村   

阿武隈山系北部の「日本で最も美しい村」飯舘村。
郡山から相馬方面へ車移動するとき、
この飯舘村を通過していくことは分かっていた。
4月初旬にもこのルートを通って、相馬の道の駅に行った。
しかしその後、飯舘村は全村避難の通告が出た。
東京電力の福島第一原発から30キロ以上離れているにもかかわらず、
風向きなどによって放射性物質が村内から検出されている。

4月に通過した時は、人々が農作業を始めようとしていて、
通りには村民、子供達の姿も見かけたと思う。
しかし今回は、まったく人の姿を見かけることがなかった。
全村民が避難しているわけではないと報道などで聞いている。
家の中に留まっている人達もいるだろうし、
出掛けた日は雨だったので、屋外に出ておられなかったとは思う。

だが、村は真昼だというのに静寂が漂っていた。
野鳥の声が少し聞こえたが、あとは「静寂の音」だけがした。
そして村の真ん中を貫く道路を、クルマが疾走していく。

何枚かの写真を写した。とりいそぎアップしておこう。
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飯舘村のメインストリート
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飯舘村の公民館
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バスを待つ人もいないバス停(バスも来ない)
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飯舘牛の看板〜いい牛肉の産地でもある
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町の看板
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これらの麦畑は刈り入れされるのだろうか?
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今年、耕耘されず、作付されない田畑
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飯舘村大倉地区〜人の姿は見えない
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大倉地区には「はやま湖」があり、真野ダムがある。真野川の上流だ
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「日本で最も美しい村」飯舘村〜その風景は実にやさしい
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by kazeyashiki | 2011-06-25 12:00 | 世界 | Comments(0)

ひとは食べる   

過日、朝潮橋のIさん宅で「ねぎ焼き」をご馳走になった。
宮城県産のネギは、九条ネギとはまた違ってうまいのだ。
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今日は国保の健康診断。
午後からだったんで、朝から何も食べずに出掛けた。
身長が1cm低くなっていた。老いてきたか。

終わって、あまりに空腹なので船場センタービルの地下、
レトロな喫茶店に入って、イタリアンスパゲッティを注文する。
久々にケチャップの濃い味を堪能したぜ。
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それから上本町で中西御大と打合せ。
こちらも喫茶店で、「山猫」って名前だ。ハイハイタウンの地下にある。
帰り道、上六の肉屋がやっている揚げ物屋で、
コロッケとハムカツを買う。415円。
帰ると、家人がいきなりハムカツを食べて「うまい!」と声を上げた。

ハムカツの写真をぷよねこさんがプレゼントしてくれたんで、掲載だ!
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ついでに、こいつもちょうだい!
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そして今、午前3時。
この時間まであれこれ書き物をする。
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by kazeyashiki | 2011-06-19 02:55 | 暮らし | Comments(5)

やばい   

今日のネットニュース


真野川のヤマメとウグイ出荷制限=福島県内で規制値超え−政府
 政府は17日、福島県南相馬市と飯舘村を流れる真野川とその支流で取れた天然のヤマメとウグイから食品衛生法の暫定規制値(1キロ当たり500ベクレル)を超える放射性セシウムが検出されたとして、同県知事に出荷制限を指示した。
 ヤマメやウグイは市場にほとんど出回らず、主に釣り客が地元の漁業協同組合から遊漁券を買って釣っている。同県は、釣り客がヤマメやウグイを持ち帰らないよう県内の漁協に注意喚起した。(2011/06/17-17:56)


4月16日に福島の相馬でヤマメ食ったやんけー。
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売ってるお兄ちゃんは、「山ン中の川で捕れた天然のヤマメだから大丈夫だよー」
って言ってた。真野川のすぐ近くやった。1本400円やった。
めちゃうまかった。だから文句は言ってはいかんね。
全然平気さ。
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by kazeyashiki | 2011-06-17 21:53 | 世界 | Comments(0)

ドキュメンタリーについて   

ぼくは映像やそれに関する手法、技術の勉強をしていないばかりか、
映像そのものについてもまったく学んだという経験はない。
やって来たのはテレビ番組の構成台本を書き、
企業のPR映像の台本をそれなりの数、書いてきたというだけだ。
それ以前は芝居の脚本、戯曲を書いていて、書くことが好きだった。
それを見ていた旧友の塩田君が、書く仕事に誘ってくれたおかげで、
映像の世界の片隅の小さな切り株に、居場所を見つけた。

見るほうでは、かなり昔の話だが、小学生の頃だろうか、
「砂漠は生きている」という教育的なドキュメント映画を見て感動した。
つまりアニメを含め物語として創作されたもの以外の映像、
ドキュメント映画というものがあることを知ったのはこの時だった。
もちろんディズニーアニメや「西遊記」などのアニメーション、
子供向きに作られた映画なども、となり町の池田にある映画館でよく見た。

いま、ドキュメンタリーと呼べるのかどうか分からないまま、
宮城と福島の農家・農地を題材にした映像と写真を記録している。
これを秋の収穫まで続けて、一本の映像作品としてまとめようとしている。
映像、写真、文章という三要素を含んだ形にしたいと考えている。
それは販売用ではなく、あくまで自分の表現のひとつとして捉えている。
一本の芝居を上演するという感覚に近い。
そのことを日々、少しずつだけど考えつづけている。

2002年に友人のプロデューサーから某NPO団体の映像制作の依頼を受けた。
当初はシナリオだけを書く予定だったが、予算的に演出もといわれた。
「できない」と断ったものの、協力体制を敷いてくれるというので承諾した。
カメラ技術への理解、編集といったことに無知な自分がいたが、
なんとかなるだろうと軽く考えて引き受けたのだった。
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〈青空教室@ネパール〉

それはNPO法人が展開する教育的な啓蒙活動を支援する映像で、
アジア諸国〜カンボジア・バングラデシュ・ネパール・ヴィエトナムにおいて、
教育の機会を失っている子供たちの現状をリポートするという内容だった。
翌年にはこの4ヵ国にアフガニスタンとインドが加わった。
その6ヵ国をまわり、1ヵ国10分程度の映像作品を制作した。
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〈家の庭で勉強する子供たち@アフガニスタン〉

これらは基本的にドキュメントの手法で制作したのだが、
ではドキュメントとは何か?ということに対してぼくが持ち合わせていたのは、
決してしっかりとした考えではなかったと思う。
ドキュメントというのは、森達也さんなどの本を読むと、
報道が公平中立的であったとすれば、制作者の世界観がそこに投影されている映像、
ということになるのだが、その当時はそこまで明確な考えなどなかった。
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〈仕事をする子供たち@ネパール〉

依頼主のNPO法人の考えを反映させてシナリオを書けばいい、
と気楽に考えたのだが、
現場のことも知らずにシナリオを書くということは不可能であるとすぐ気づく。
そこで現場を見ながら考えるということになる。
だが、考えている場合ではなく、現場に行けば撮影が優先される。
つまり撮影しながら考えることが求められる。
これまで音楽番組や企業の広報映像を作ってきたぼくにとってそれは未知の世界だった。
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〈仕事をする兄と妹@カンボジア・トンレサップ湖〉

結局アジア諸国での撮影の間、ぼくは懸命にノートを取りながら取材し、
同時にカメラが回っていた……という、実に危なっかしい制作スタイルで仕事を終えた。
依頼主の意見、現場のプロデューサーの意見なども聞いたが、
何よりも取材する状況から得ることが優先したいと思いつつ進めた。
このときよく話をしたのがカメラマンで、彼の見る目線に同調させることが多かった。
それは、事実を事実のまま撮影するということで、
カメラマンいわく「それしかできないでしょう」ということだった。
今は亡き森川法夫さんである。
数々の現場経験を踏んで来た彼から教えられることは実に多かった。
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〈森川カメラマン@インド・ゴカックのホテルの庭で〉

そしていま、宮城と福島にでかけ、
宮城では仲間を津波で失い、
農業ができなくなった仲間に心を痛める佐々木さんの作付の一年を追いかけ、
福島では、作付できなくなった田畑の様子を撮影している。
まだ福島の農家の方々の声を聞くことはできずにいるのがくやしい。
無理はしない、いや、できない性分だが、
出来ることを着実に進めようとしているだけだ。

もとより当初の動機は、
地震と津波によって傷んだ農地、農民はどうなっているのか、ということであり、
誤解を恐れずにいえば「好奇心」であった。
現地へ出掛け、どのような形でこの一年、農業をおこなっていくのかを見たかった。
その上に、東京電力の原発事故による被害が福島県を襲い、
耕耘することもできなくなった福島の農家への思いがふくらんでいった。
常に「東北の農家はどうなるのか?」という点が初心である。
ぶれるとそこに立ち返りながら、この秋までの稲作農家の現状を見ていきたい。
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〈田植えをする佐々木さん@日本・宮城県遠田郡〉
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by kazeyashiki | 2011-06-14 11:00 | 農業 | Comments(0)

福島の大地   

テレビで福島県のさまざまな状況が映し出されている。
飯舘村からは住民が移動している。「計画避難」ということだが……。

ぷよねこさんのブログに「どこかに美しい村はないか」という書き込みがある。
http://d.hatena.ne.jp/shioshiohida/20110607/1307379174
ここで「日本で最も美しい村」というサイトが紹介されている。
http://www.utsukushii-mura.jp/
【NPO法人「日本で最も美しい村」連合】という組織が運営しているサイトで、
このなかに飯舘村が入っている。
http://www.utsukushii-mura.jp/iitate-index

4月に福島県をめぐったとき、飯舘村には行けなかった。
行っておけばよかったと思う。下調べ不足を痛感する。
めぐったのは、相馬と南相馬の一部の地域だけで、
田んぼの写真は撮ったけど、農家の人たちの話を聞くことはできなかった。
いや、聞くことは聞けたのだった。
しかしビデオカメラはうまく回せず仕舞いだった。
冷静にカメラを向けることができなかった。
だが、話の内容は記憶している。その日のメモに内容を書いている。

「南相馬の沿岸部、クルマの腹を摺りそうな農道を走っていくと、海を近くに感じた。
 〈右田浜海水浴場〉という標識が見えた。
 一面、田んぼが広がっていて、さまざまなモノが柔らかな土の田に入ってきている。
 (ガレキ、とは言いたくない気分だ)
 クルマ、ブロック、材木、肥料などの袋、そして農業機械だ。
 オレンジ色の馴染みのあるトラクタがタイヤを空に向けた形で泥に埋もれている。
 その会社の者ではないけど、そこで仕事をしていた者としては見るに忍びない。
 活躍できないトラクタは哀しい存在だ。田んぼのなかの作業小屋が流されたのだろう。
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 田んぼの向こうから自転車に乗った男(60過ぎだろうか)がやって来た。
 あきらかにぼくの方に向かってやって来る。
 勝手に農地へ入り込んできたぼくは、抗議や非難されるだろうか。
 だが、そうではなかった。来るなり男は喋り始めた。興奮状態だ。

 〈全部やられた。全部だ。津波だ。見えたんだ。波が、白い波が見えた。
  仲間がいて、軽四で、窓あけて、波が来るって叫んでいた。四台いた。
  見たら、白い白い波、いつも見たことない波が見えて、こりゃダメだ。
  軽四がターンして戻ってくる。わしは自転車で農道行った。この農道。
  川からも水がこっちに来た。海からと川から両方。あの真野川からだ。
  背中で水の音がしていた。轟音じゃない。あそこの広い道まで走った。
  道まできて振り向いたら軽四が浮かんでいるんだ。乗っている軽四が。
  水がどんどんこっちへ来るから、また自転車で上の国道の方へ走った。
  ずるずると水がきて、軽四が見えんようになって、分からなくなって。
  一瞬のことで、何がなんだか分からなかった。地震の後に津波が来た。
  原発言ってたんだ。ダメだダメだって。そりゃ雇用あるよ、あるある。
  こうなってしまったらおしまいだ。今さらしかたがない。おしまいだ。〉

男は一気にまくし立てて喋っていた。こちらが話しかけられないくらいに。
記憶していることを並べただけで、この通りではない。翻訳し創作している部分もある。
だが、大意はこうだった。
やがて空模様があやしくなってきた。
男はふらふらと自転車を操作して帰っていった。
やがて、クルマで走りはじめると、落雷をともなった豪雨がやって来た。」
(日記メモから引用)
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南相馬も美しい風景がひろがるところだ。
その南相馬にある「道の駅」が6月1日から再開している。
http://www.nomaoinosato.co.jp/index.htm
4月に出掛けたときは閉鎖していて行けず、「道の駅そうま」で野菜などを買った。
この再開で、南相馬へ行く目的ができた。

飯舘村は南相馬から近い。計画避難で多くの村民が移動しているために、
空き巣などの防犯パトロール隊が巡回しているという。
単独で行動していると空き巣犯に思われる可能性は高い。この点だけは気をつけたい。
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by kazeyashiki | 2011-06-13 12:00 | 農業 | Comments(0)

京都にて。   

劇団の女優だった”あみちゃん”を偲ぶ会が京都木屋町三条上ルの”ふぉあぐら屋”2階ギャラリーで開かれ、16歳からあみちゃんと付き合いのある”ミアちゃん”が仕切ってくれた。久しぶりに銀色昆虫館の仲間が集った。

偲ぶ会、想い出話はいつもどこか切なさがある。主人公のいない物語を紡ぐのだから、その不在感というひんやりとした風が吹いているからだろう。郷愁ではなく、これまで生きてきた年数の重さに、あらためて気づかされる。

経過を聞いた。5月17日に岩倉のアパートで弱っているあみちゃんを訪ねてきた友人が見つけ、病院に入院させた。その日にミアちゃんが訪ね、元気に話をしていたという。それから2週間、いそがしさもあって見舞いに行けなかった。そして5月30日に病院に出掛けたら、2日前にあみちゃんは亡くなっていた。

あみちゃんはだれにも看取られず、ひとりで旅立っていったのだ。親族は離散していて、双子の弟は所在不明のまま、父母はもういなかった。孤独の死であったことを思うと胸が締めつけられる。入院していることを報せてほしかった、というのはこちらの身勝手な言い分である。

どのように葬儀がおこなわれたのか、だれも知らないままだ。そのことがとても悲しい。

劇団員が次々と駆けつけた。名古屋から明日香、大津から元ちゃん、長江、和田夫妻、大道具田島、そして小林夫妻。このうち明日香と長江は、島田誠彦の死を知らず、告げると驚き、言葉を失っていた。われわれの間に長い時間が経ったということなのだ。

富山の中学を卒業して一旦京都にやって来たあみちゃんは、その後東京に出て六本木や銀座の店で働き、また京都に戻ってきた。そしてぼくと出会ったのが27歳の時で、「なんにもできないオカマよ!」と言いながら劇団に入ってきた。健康状態もまだよくて、古くからあみちゃんのことを知る人達は、彼女が最も輝いていた時期を劇団で過ごしたんだ、と口々に語った。そうなのだ、芝居という空間に身を置いていた時期のあみちゃんは光り輝いていたんだ。

彼女が大事にしていた一葉の写真。それはどこかの海水浴場で、双子の弟と母たちと一緒に写っている。この写真をずっと持っていた。記憶の風景、それがあみちゃんの信仰心だったのかもしれない。
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by kazeyashiki | 2011-06-08 10:53 | 記憶 | Comments(4)

日々の暮らし   

6月3日。母と病院へ。
このところ”病院”という言葉に抵抗感を示す母であるが、
検診後にトンカツ屋で昼食を……ということで機嫌を取り、何とか連れ出している。
血圧は問題なし、体重45キロ、顔色もよし、
ということで診察はあっという間に終わった。
担当医が「長生きできますよ」という。
耳が遠い母には聞こえない。
「もう長生きしていますけどね」ぼくが応える。
「百までいきましょう」と医師。
生きるのか行くのか、日本語はなかなか曖昧で難しい。
昼食のレストランで、
大きなエビフライと冷やし中華漬け麺をしっかり食べる母であった。

6月4日。
長らく使ってきた携帯電話が、開くたびに、
「初期設定してください」という表示が出るようになり、
開くと画面が真っ黒であったりするので、新しい電話に取り替える。
これまでN社だったが、気分を変えてS社のスマートフォンにする。
いつかこういう機種も消えて行くんだろうから、今のあいだ使ってみよう。
代理店で購入手続きをし、新しい携帯電話を手に入れた。
ここのスタッフは実に丁寧に説明してくれた。
まだ学校を出たばかりの若者。いい感じだった。
その後、前の携帯の電話番号を移し替えなければいかんので、
大阪市内のS社のショップにいく。
こちらは対応が実に悪い。
白髪頭の40代の男で、姿勢が悪く、目はうつろ。
とてつもなく邪魔くさそうに話すので、
いちばん最後に「仕事するのイヤなんか?」と尋ねてみた。
それまで一度もこちらの目を見なかったスタッフがこちらを見直し、
「そんなことは……ありません」という。
「ほんまか?」と少しつっこんでみたが、うまく逃げられた。
S社は名前の割りにソフトが悪い。ハード(機械)はいいのにね。

6月5日。資料としての本と映像を朝からずっと読み、見る。
合間にカントールの『死の演劇』をぱらぱらと読む。
あすも原稿の続き。始まるべき仕事が始まらないので、どうしたものかと思っている。
払ってくれない会社に交渉するのもひと仕事である。
いろいろある2011年6月である。
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by kazeyashiki | 2011-06-05 22:23 | 暮らし | Comments(0)

あみちゃん   

初めて会ったのは、”貸し物屋”とぼくらが呼んでいた展示会の設営のアルバイト先のことで、だれかを通じて、あみちゃんがぼくと話がしたいと言われたからだ。場所は京都烏丸あたりの展示ホールのあるビルで、設営するまですこし時間があったので、喫茶店で対面した。おそらく1982〜3年頃のことだと思う。

銀色昆虫館という芝居の訓練などまったく受けていない素人集団が演劇らしいものをおこない、1980年の創立から年に大きな公演を春秋二回、夏と冬には小さな会場で小さな芝居を打っていた。そんな話を聞いていたのだろう、あみちゃんが「入りたい」という話をしていることを聴いていた。だが、あみちゃんは男である。そして「おかま」だ。ぼくは「う〜む」と思った。これまでそういう人格のひととは馴れ親しんだことがなかった。

初対面のあみちゃんは、なぜか物凄く照れていて、ぼくの目を見て話すことがなく、終始微笑みながらも目が泳いでいる状態だった。「うち、全然芝居なんかしたことないさかい、セリフいえんでもええから、化粧ばっちり決めて、衣裳着て、舞台にいるだけとか、歩いて通り過ぎるだけでええねん。そういう役の方が向いてる思うし、物覚えわるいし、そういうのやったらあかん?」というようなことをくりかえした。

それからすこしして、船岡山の廃屋アパートにある稽古場へやって来た。そしてちょうど書き出していた芝居「夜になると君に話しかけたくなるのだ。」という、谷川俊太郎の詩集のパクりのようなタイトルの戯曲に、あみちゃんの役を書いた。「あて書き」である。あみちゃんという人物をまだよく知らなかったが、こちらが直感的に思ったことを登場人物にして造形した。たしか「夜の女」というような役柄で、黒い服を着て舞台に立った。あみちゃんファンが大勢見に来てくれて、面食らった。あみちゃんは夜の飲み屋でたいへんな人気者だったのだ。
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稽古には毎日来て、合間にワンカップを呑んでいた。「稽古が終わると呑めるから」といってもきかなかった。この頃はまだアル中ではなかったと思うが、若いころからさまざまなクスリをやっていたので、その後遺症というかフラッシュバックが時々やって来るようだった。それがツライので酒でごまかす、ということだった。だけど芝居のセリフは憶えてきていたし、演技も工夫して、いろいろなパターンを考えて来て、稽古場でみんなを笑わせ、驚かせ、感動させた。天性の見せる才能というか、ひと前に立って何かする才能があった。まだ十代の頃、ダンスを習っていたというのも援護した。指先、手の動き、脚の形など、どれも常に意識していたし、きれいだった。女優達はすっかりあみちゃんを慕い始めた。

酒を呑むようになって仲よくなってからは、むかしの話をよく聞いた。なぜ「おかま」になったのか、という話は何度も聞いた。あみちゃんには双子の弟がいて、彼はまったく普通の男性として生活している。しかしあみちゃんは小学生のころから女の子であり続けたようで、中学生のときは墨をマスカラ代わりにして学校に通っていたそうだ。富山県の田舎町のことだったという。中学を卒業して東京へ行き、フーテンになったという。そしてフーテンを取材していた桐島洋子に可愛がられ、「アミーバ」というニックネームが書かれた桐島の本を大切に持っていた。

芝居ではメイクが何よりも大事で、つけまつげは7〜8枚つけた。「これでもすくないくらいやし!」自分のメイクの合間に、他の役者のメイクを次々と仕上げていった。衣裳は自分では作れなかったようで、だれかに依頼していた。着物のときもあったし、豪華なドレスのときもあった。ズボン姿というのは決してなかった。舞台に上がると歓声が飛んだ。人気は常にあった。東京公演のときなどはファンがいないので、そのぶん、アホに徹して演じていた。そして芝居がはねて新宿の町へ出ると、昔の血が騒ぐのか、張り切っていた。
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だが、だんだんと日常生活のなかでもフラッシュバック現象が起こるようになり、あみちゃんは何度か精神科の病院へ入退院をくりかえした。岩倉の病院へ見舞いに行ったこともあった。芝居の方はすこしだけ出るが、セリフが憶えられない、段取りを間違うなど、どうにも難しくなってきた。だけど他の役者のメイクや衣裳を懸命に手伝っていた。そういう献身的なところは生来のものだったと思う。稽古場が木屋町二条に移り、きちんとしたキッチン付の場所だったので、あみちゃんは食材を買い込んで来て、大きな鍋で料理を作ってくれた。中華だったり洋風だったり煮込みだったり、料理はうまかった。

やがて劇団は解散。それからのことはよく分からない。時々集まることがあったけど、あみちゃんが集まりにやってきたのはもう5年ほど前のことだったか。肝臓の調子がよくない、なんて言っていたけど、相変わらず酒は飲み続けていた。

歌と踊りが好きで、舞台では自分の登場の音楽はもちろん、衣裳、メイク、照明のゼラチンの色まで指定して、とにかくひとに見られることが好きな割りにはシャイで、子供が好きで、なさけない年寄りを叱りとばしたひとだった。そして芝居がはねた後、銭湯に行くのだが、あみちゃんはもちろん男湯に入る。そして湯舟に浸かって、見知らぬオヤジのあそこを足の指で触る、というよなイタズラをする。一緒に入っているぼくをオヤジがジロリと睨む。ぼくが変なことをしていると思われてしまう。そういうことをして喜んでいるひとだった。

年齢は不詳。だけどぼくより少し年上だから、まだ60歳になっていないのではないか。そのあみちゃんが先週の土曜日、つまり2011年5月28日に京都の日本赤十字病院で亡くなったと連絡を受けた。どういう経緯があったのかは分からない。

かつて京都に、1980年代から90年代半ばまでの間、銀色昆虫館というケッタイな劇団があって、そこにあみちゃんこと「亜巳婆」という名前の役者がいたことをここに書き記しておきたい。おかまだけれど、とてもいい女優だった。いいヤツだった。
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by kazeyashiki | 2011-06-01 21:00 | 記憶 | Comments(0)