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京都の日吉   

1980年に京都市左京区久多で劇団銀色昆虫館を旗揚げした。
その時に参加していたメンバーは大学生が中心だったから、
卒業と同時に故郷に帰ったり、就職したりで、
その後劇団は続いたけど、彼らとの関係は途切れていた。

それが過日、劇団員だった亜巳婆が亡くなり、
その追悼会で昔馴染みに出逢い、
そのツテから、劇団初期のメンバーと連絡が取れた。
同時に、ネットのサイトで連絡を取り合ったメンバーもいて、
某日、集まる約束をした。
なつかしい仲間が再会し、ひとときを過ごすというわけだ。

夫婦で劇団に参加していた永田家が、
京都の南丹市に古い農家をセカンドハウスとして買ったというので、
季節もいいし、そこで再会の宴を開催することになった。

南丹といえば、かやぶきの里の美山が有名なのだが、
南丹市は、園部、八木、美山、そして日吉町が合併してできた市で、
訪れた家は旧日吉町にある。
美山へ向かう手前、トンネルの前で右折して集落を突き抜け、
もうこれ以上先には人家はありません、という山中に永田家がある。
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〈茅葺きにトタンを被せた永田家セカンドハウス〉

午前10時に京都駅で待ち合わせ、五条通から京都縦貫道を経て、
正午前には到着する。岐阜から参加した岩田氏の車に乗せてもらう。
マコト、田島の男4人だ。
「どこから話をはじめたらいいのか分からないなあ」
それほど時間が経っているわけだが、過去の話ではなく今の話をした。

兵庫県の公務員であるマコトは、今回の東日本大震災の際、
真っ先に福島県に入ったという。阪神・淡路の経験があったからで、
兵庫県がもっとも早く被災地に入ったそうだ。
しかし彼らが行った場所は、すぐに避難区域になってしまい、
追い出されてしまったという。
マコトはいまも、東京電力福島第一原子力発電所周辺の家々、
そしてまだ手の付けられていないであろう区域のことを心配している。

そんな話をしながらクルマはどんどん進んで行った。

永田夫婦は2003年にこの家を購入したそうだが、
その当時はかなり傷んでいたらしい。
夫婦で休みの日来て、修理したり、新しく作ったりしたという。
職人ももちろん雇ったが、自分たちで修復した部分もとても多く、
たいへんな作業が続いたそうだ。
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〈山からの水はとても冷たくて、うまい!〉

火を熾し、囲炉裏端に座って乾杯する。
ほぼ、25年振りの再会だ。
四半世紀、いろいろなことがみんなあっただろうけど、
基本的には、あまり変わることはない。
ただ、仲間が亡くなったことが悲しい。
「こうして集まるのも、我々の人生も、残り少なくなってきたからやな」
と言い合っては笑った。
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〈こういうふうにして食べると、何でもうまい〉

それにしても山間地はとても涼しく、汗を掻くということがない。
マキで沸かした風呂に入れてもらう。
浴室には大きな窓があって、外の風景がたっぷりと楽しめる。
まるで温泉地に来ているようだ。

酒盛りは加速し、飲み足らないぼくらのためにきみこが酒屋へ走る。
クルマで10分くらいの距離だ。

遅くまで飲み、食べ、語らって、夜おそくに帰路に着く。
岐阜の岩田氏は酒を飲まないに甘えて、ぼくらはすっかり酩酊してしまう。
京都駅まで送ってもらい、散会した。

それにしてもいいところを知ってしまった。
またぜひ出掛けたい。
日吉で村祭りをしようと盛り上がった。
ギターで伴奏する村民のためのカラオケ大会がいいという意見になる。

かつて美山で稲作りをしていたが、縁が途絶えてしまっていた。
だがこうしたまた美山近くの日吉にいい居場所を見つけてしまった。
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by kazeyashiki | 2011-08-28 07:00 | 京都 | Comments(0)

わが政府   

ようやく菅直人首相が辞める。
これほど国民に辞任を待たれた首相もいないのではないか。
といっても、ぼくが憶えている最果ての首相といえば池田勇人だった。
「私は嘘は申しません」という迷言が横行し、
小学生だったぼくらでも使った。
つづく佐藤栄作は、全共闘世代には嫌悪感があるかも知れないが、
1970年当時中学生だったぼくには(政治意識も希薄な田舎者だったし)、
どういうこともない総理大臣だった。
次の田中角栄は、ある意味すごい首相だったと今は思う。
こういう人がいたことは、負か正かはともかくとして、国の財産だろう。
角栄を含めた「三角大福」の人たちが順次首相になっていったが、
三木、大平、福田の時代はこれといったことがなかった(自分的にだけど)。
「三木おろし」って言葉を憶えていて、
当時は大根おろしのようなものを想像してしまった。
その後、鈴木、中曽根、竹下、宇野、海部、宮澤、細川、羽田と続き、
村山富市のときに阪神・淡路大震災が発生したんだな。
橋本、小渕、森、小泉、安倍、福田、麻生ときて、
民主党政権になり、鳩山、菅と総理大臣山脈が連なって来たわけだが、
このなかで直接その姿をみた人といえば、
橋本龍太郎を大阪のホテルで見かけたのと、演説中の小泉純一郎くらいだ。
それほどまでに「生総理」は見る機会がない。
だれもそんなもんだろうけど。
しかし今回、もし前原誠司が民主党代表になったとすれば、
ぼくにとって初めて会話をした人物が総理大臣になることになる。
そんなのちっとも自慢にもならないけれど。
京都の人だし、会う機会が他の人々に比べて高いという確率の問題だし。

ともかく菅直人が辞める。歓迎ムードみたいだ。
無能、嘘つき、権力的・・・いろいろなことが言われているが、
東北大震災への対応などをみていると、本当にダメだなあとぼくも思っていた。
だけど、こうした大災害のときに無能な政府であったことは、
逆説的な見方だけど、よかったのではないかとも思う。
震災、原発事故といった未曽有の出来事に対して、国民は懸命に考えた(ている)、
そのキッカケがこの無能な政府にあったのではないか。
「無能なだけじゃなく、腹立つ」という人もいるかも知れないけれど、
少なくとも何もしない、できない政府がいたことによって、
市民の側に考えるヒント、キッカケが回ってきた(奪い取ったといってもいい)。
もっとも、問題はそう単純構造ではないけどね。

さて、「首相、変わりすぎ〜」とムーディーズに言われて国債格下げされて、
格付けではイタリアの下、中国と同じ格になってしまったニッポン。
ここからしかスタートが切れない。だけどどこに向かって走ろうとしているんだ?
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by kazeyashiki | 2011-08-24 09:00 | 世界 | Comments(0)

たぼー   

なんだかいそがしい。
調子もよくない。
そういうときにかぎってあわただしい。
だがこれも身から出たなんとかで、
ひとつずつこなしていくしかない。

お盆休みというのは1日だけだったが、
でかけたり、人と会って飲食をともにしたり、
よくしゃべったりしゃべりすぎたりして、
疲れてしまった。
これも自業自得なことだ。

うごきださなくては!
といっても、原稿をかくことに専念すること、
そこからしかはじまらぬ。
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by kazeyashiki | 2011-08-23 10:00 | 暮らし | Comments(0)

朝に思うあれこれ。   



いろいろあった京都五山の送り火が昨晩、雨に降られることもなく終わった。
震災の年の送り火だから、亡くなった方々のことを京都五山で見送りたい、
という感覚は分かるのだが、阪神淡路のときはどうだったんだろうとふと思う。
「やっぱり京都は一見さんお断りなんだなぁ」という声もあったけれど、
関係者の気持ちはたいへんだっただろうと想像する。

学生時代、この送り火のアルバイトをしたことがあった。
点火に必要な用具を運搬する仕事だったが、よく憶えていない。
かなり山道がしんどかったこと、火がとても熱かったこと、
そして如意ヶ嶽、大文字山から見る京都の町がきれいだったことくらい。
ここからの眺めはとてもいいんでオススメです。山科から登る方が感動するかな。



高校野球が盛り上がっている。いや、正確には自分の周辺でのことだ。
ぷよねこ氏がほぼ毎朝、甲子園に出掛けてfacebookで中継してくれる。
彼の家は甲子園球場から2マイルの距離、3.3キロメートルだから近い。
写真入りのぷよねこ中継をみると、テレビでは伝えてくれない情報があって楽しい。
ぼくも先日、宮城の古川工業高校の試合を観戦したので、
今年は高校野球のエレメントが身体のどこかに入り込んできているのだ。

もとより野球に関しては小学生のときに少しやっただけで興味からは遠い。
親父の影響で南海ホークスの試合を何度か見にいったけれど、
親父とて、いつも南海電車に乗っていたから親しみを感じた程度のファンであり、
わが家ではプロ野球中継が常に流れていた記憶は少ない。
むしろ、大相撲かプロレスなどの格闘技系が茶の間を占めていた記憶がある。

ともかく今夏の高校野球。
いま、光星学院(青森)と東洋大姫路(兵庫)のゲーム中だ。
(書き終えたいま、光星学院が勝ちました……。)



森山大道の写真が好きで、写真集を買い集めてはいないのだが、数冊ある。
この大阪池田に産まれた写真家の目線に親しみを感じるのはなぜだろうか。
いま、中之島の国立国際美術館で写真展が開催されていて気になっていた。
近いうちにでかける予定。



また、『街道をゆく』の挿絵画家だった須田剋太さんの原画展も開催中だ。
この長い紀行文学は小説を書かなくなった司馬遼太郎の晩年の物語であるが、
どこかに郷愁を隠し持ったような題名と、
日本各地、世界の辺境を歩いた記録がその時の世界を描き出していると思う。
その同伴者が須田剋太という関東生まれの画家であった。

話は逸れるが、松本健一氏の『三島由紀夫と司馬遼太郎』を読むと、
1970年11月25日の市ヶ谷での三島自決の直後から『街道をゆく』の取材が始まり、
それは司馬の三島に対する批判(という言葉が悪ければ)アンサーだったのではないか、
という論の立て方をされている。
三島由紀夫はロマン主義的精神の持ち主で、司馬は合理主義的精神を持っていて、
松本氏はロマン主義的な精神の構えを、
「美しいものを見ようと思ったら目をつぶれ」であるとし、
合理主義的精神の構えは「現実をあるがままに見よ」というふうに定義している。
つまり三島と司馬の立場は「真逆」であった。
そして『街道をゆく』には、〈天皇の物語〉が一切登場しないことを指摘する。

三島と司馬は、実年齢で1年5ヶ月しか離れていない。司馬が年上である。
その年齢の近さにもかかわらず、二人の精神の構えはこれほどまでに違う。
そこには戦争体験など、二人の経験や環境の違いもあるにせよ、
同世代としてあまりにかけ離れた精神を培い、育ててきたことに驚いてしまう。

『街道をゆく』の第一話「湖西のみち」が掲載されたのは、
1971年1月1日号の週刊朝日誌上だ。
逆算すれば、1970年の11月末か12月初旬にこの原稿が書かれている。
「湖西のみち」では、渡来人の新羅神社や安曇人、朽木街道の織田信長の話はあっても、
「大化改新をおこない近江大津宮をつくった天智天皇のことがまったく出てこない」
と松本氏は指摘している。そしてその後のシリーズも同様に〈天皇の物語〉は不在だ。
これはきわめて興味深いことである。

だが、話はそれで終わらない。
三島と司馬という文学者の「真逆」の立場が解説されただけではない。
松本氏は、司馬が亡くなる直前に書いた「風塵抄−−日本の明日をつくるために」で、
90年代のバブル経済、とりわけ地上げに関して激しい論調で批判していることを挙げ、
「一九九六年の司馬遼太郎の死は、憤死に近いものだったといえよう。」と書いている。
「高度経済成長のうえに乗って欲呆けし、バブル経済に狂奔していた日本」を、
司馬はきわめて激しい論調で批判していると。

1970年の三島の死、それから26年後の1996年の司馬の死。
三島事件を「精神異常者が異常を発し」「さんたんたる死」と司馬は毎日新聞に書いた。
しかし26年後、司馬は戦後日本の経済的荒廃を嘆き、「憤死」する。
ここで三島と司馬の精神が交差すると見るのは性急なことだろうか。

話を戻す。
『街道をゆく』の挿絵を描いた須田さんは、関東生まれでありながら近畿圏に暮らし、
今回の原画展も、一時住んだという守口市で開催される。
生涯、生まれ故郷の言葉が抜けなかった須田さんが、守口や西宮に居を構え、
司馬に同行して日本各地、世界の辺境地を経巡って描いた絵には、
司馬の合理的精神に近いようで、どこかロマン主義的な精神があるように思える。
あえて司馬は須田という画家を『街道をゆく』に誘ったように思えて仕方がない。

須田さんは1990年7月14日に、84歳で亡くなられた。
司馬は『街道をゆく35巻−−オランダ紀行』のなかでそのことに触れている。
司馬がゴッホについて須田さんにたずねると、
〈「線。−−−」
と言い、ゴッホの線、すばらしいですね、
とふたたび虚空をさわるようなしぐさをした。〉
と、病室での画伯の様子を描写している。

須田さんの「線」を見に行きたい。
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by kazeyashiki | 2011-08-17 10:12 | 暮らし | Comments(0)

戦争が終わった日に   

戦争の話を、亡父からなんども聞いて育った。
中国大陸に従軍していて、復員したのが昭和22年のこと。
鹿児島に船が着き、大阪まで列車に揺られて戻り、
壊滅状態にあった大阪の街をみて嘆き、
母と弟妹が疎開していた京都吉田山まで向かい、
ようやく「戦争から還ってきた」と感じたという。

戦火の下の話は、幼い私に悪夢を見させるほど恐ろしかった。
だが、ありのままを語ってくれたことに今は感謝している。
「日本兵がかの地で何をしたか……」
その後、それらを記録した書物でも知ったが、
父から聞いた話がもっとも強烈な印象として残っている。

復員してきた者も、それからただちに社会復帰したわけではなく、
多大な苦労があったと聞いた。
父も健康を損ない、復学する予定がダメになり、
しばらく入院生活を送ることに。
しかしその結果、健康を取り戻して私がこの世にやって来たのだから、
厚かましい言い方だが、「よかった」と思う。

そして今日、終戦記念日。
66年の歳月はだんだんと消え去っていくが、
遠近法だと思う。
遠くにある地点から地続きで今がある……そう感じる。
決してどこかで途切れてなどいない。

小学生のとき、私達の先生は戦前の教育を受けた方々だった。
価値観が一変したなかを生きて来られた先生がたであったが、
今も、平和の尊さを言い聞かせてくれていた先生には、
なつかしいぬくもりを感じる。

ふと、寺山修司の文章を思い出す。
彼は青森県で国民学校の3年生だった。

「つかまえたばかりの唖蝉を、汗ばんだ手にぎゅっとにぎりしめていたが、
 苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、私の心臓までずきずきと、ひびいてきた。」

夏。青空。まぶしい光。白い運動場。8月15日。
寺山作詞の「戦争は知らない」はちょっと感傷的だが、
寺山修司にしか書けなかった詩であることはたしかだと思う。

 ♪〜野に咲く花の名前は知らない
   だけども野に咲く花が好き
   帽子に一杯摘みゆけば
   なぜか涙が涙が出るの

   戦争の日を何も知らない
   だけど私に父はいない
   父を想えば ああ荒野に
   赤い夕陽が夕陽が沈む
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by kazeyashiki | 2011-08-15 20:00 | 世界 | Comments(0)

5ヶ月   

3月11日から今日で5ヶ月経った。
TVで、行方不明になった妻の死亡届を出すことをためらっている夫のことが
報道されていた。
行方不明者数は4700人余りだという。
そのうち、およそ半数以上の死亡届は出ているが、
残りはまだ行方不明のままになっている。

自分の身内だったらどうするだろうか。
5ヶ月経って姿を見せないのであれば死んだと考えるか、
あるいは考えないか。死亡届を出すか出さないか。

この場合、死亡届を出さない理由の内実は、
死んだという事実を認めたくないという心理からだろう。
もっとも、”まだどこかで生きている”というのは非現実的だ。
しかし人は、その非現実性に心理的に抗うことをする。
その抵抗はある種の空虚さを持っているが、
非現実性を認めてしまうことでふりかかる苦痛が大きいことも知っている。
苦痛のなかに身を置きたくないから認めるを回避する。
そしてその苦痛は、自分の拠り所を失う不安も持っているのだ。

自分のこととして考えると、そういう心理の経路が見えてくる。

「お父ちゃんは死んでない!」
そう言いながら大泣きしていた女の子がいた。
幼い弟の手をにぎって、親類だろうか、中年の女性に訴えていた。
女性は「死んでないよ死んでない」と少女に言い返した。
だが少女はまた同じセリフをくりかえした。
「お父ちゃんは死んでない!」
弟は指をくわえて、だれを見るでもなく前を向いて立っている。

そんな光景を5月にみた。
福島県のある商店街の通りの真ん中でのことだった。

その後のことはなにも分からない。
だけど少女は今でも、
「お父ちゃんは死んでない!」
と叫び続けているかもしれない。胸の中だけかも知れないけど。

泉谷しげるが、清志郎が死んだとき、
「おれは死んだなんて認めない」
という言い方をしていた。
こういう言い方をする人が時折いるが、気持ちは分かる。
ぼく自身、友人を亡くしたとき、認めたくなかった。

あの震災から5ヶ月。
関西にいるとだんだんあの事象が遠ざかっていく感覚になってしまうが、
まだ三陸沿岸部の海岸線には人が寄り付かず、田畑は耕されず、
避難したまま戻れない人々がいる。
そして行方不明の人と、帰りを待っている人がいる。
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by kazeyashiki | 2011-08-11 00:01 | 世界 | Comments(0)

甲子園、夏。   

久々に甲子園に出掛けた。高校野球が熱闘中だ。
宮城の涌谷町で米づくりをされている農夫、
佐々木さんが地元古川工業高校の応援でやって来た。
彼の米づくりをおれは今年、追いかけている。
宮城県から12時間かけてバスでやって来られたのだ。

甲子園球場に行くのは実に久しぶりだ。
前に来たのは野球観戦ではなく、コンサートだったんではないか。
中学生の頃は、塩谷君とよく高校野球を見に来たものだったが……。

外野席は無料なので、21号口から入る。
誰もがいうけれど、狭くて薄暗い通路から、
広い緑の芝生敷きつめられた球場の空間に向かうのは、心躍る瞬間だ。
四角く仕切られた入口の向こうに青空がのぞき、
歩みを進めていくと広々としたグランドが広がっていく……
この瞬間に私達は感動する。
それはしっかりと整備された人工の美しさだ。

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アルプス席寄りの外野席中段に、二人のおっさんの姿。
佐々木さんとぷよねこさんだ。
すでに手許には生ビールのプラスチックカップがある。
午前10時。
野球場だから認められる愉楽のしるしだ。
もっとも高校野球だから、
周囲にはビールの似合わない若い人たちがいるのだが。
それでもビールを飲むのはおとなの特権である。

前の試合、福井商業が作新学院の猛攻の末に破れる。1−11。
福井にはいささかの思い入れがあるのは、母方の故郷のせいだ。
作新が強かったのでしょう。

やがて古川工業の選手達が練習をはじめる。
初出場だ。
宮城県の大崎平野にある県立高校だという。
涌谷町の佐々木さん宅からさほど離れていない地域にある。
東北や仙台育英などの常連強豪が敗退し、
決勝は利府という県立勢同士だった。

試合がはじまった。
だが、古工のエース山田は唐津商業の打者11人の猛攻に遭い、
初回で7点を失ってしまった。
う〜む、これはちょっと厳しいぞ。
だが、150キロ代の速球を投げる唐商の北方投手に対し、
4回に2点、5回に1点、7回にも1点を入れるが、届かず。

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そうした熱闘がくりひろげられているなか、
おっさん3人は、もちろんゲームは観ているのではあるが、
無駄話もそれなりに多くて、
ぷよねこ氏持参のビールやチューハイを流し込んでいた。
それも野球観戦のひとつの方法ではある。

結局4−9で古工は初戦敗退し、球児らがアルプス席前で頭を下げる。
それに応える応援団。2011年の夏が去っていく。

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12時間かけて、ふたたびバスに揺られて宮城に還る佐々木さん。
バス乗り場まで見送って、おれも阪神甲子園駅まで歩いて帰る。
球場では次の広島代表・如水館と初出場の岐阜代表・関商工の声援が響き、
日差しはますます強くなり、それでも浜風が時折通り抜けていく。
たまに来る甲子園の夏はいいものだ。
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by kazeyashiki | 2011-08-08 18:06 | 暮らし | Comments(0)

Who'll Stop The Rain   

たまに、猛烈に聴きたくなる唄ってあるんよねー。
昨日書いた「金婚式」もそうやけど、中学生の頃に流行った唄もそう。
C.C.R.ってカッコよくないけど、渋くて泥臭くて、
中学生のときはメロディにとっつきがよかったけど、
だんだんBandの姿勢というか、志向性、思想性にしびれるのですね。



ヒット曲では、こんな唄もありました。
いま聴くと、ヘンな唄なんやけど、
中学のころはラジオから流れてくると耳を澄ましたりなんかした。
シングル盤ジャケットのルーさん、ちょっと意味ありげ過ぎの表情ですなあ。
やっぱり、ヘン。



ええい!1969年のヒット曲のつづれおりはこれだわ。




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by kazeyashiki | 2011-08-07 01:00 | Comments(0)

金婚式   

箕面市の桜という地名の土地におれは生まれた。
親戚と一緒に住む、貧しい家だった。
だが、家は大きかった。同じような間借り人がようけいた。
ある日、近くの大きな家の前を通ると、
家の中からピアノのメロディが聞こえてきた。
ぼーっと聞いていた、記憶がある。
それからまもなく、小学校の音楽の授業である曲を聴いた。
それが同じ曲だった。
クラシックを聴いたはじめてのこと。
それは「金婚式」という楽曲でした。
以来、この曲のことを忘れたことがない。
そんな曲って、あるよね?


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by kazeyashiki | 2011-08-06 01:00 | 記憶 | Comments(0)

東京散策。あるPV。   

久々に上京して、荷物を宿に置き、散策した。
雑用で霞が関に行き(どんな雑用やねん)、
日比谷線で広尾で下車。久しぶりにこの駅で降りた。

この界隈には外国人が実に多い。
大使館などが多いからでしょうか。

天現寺の陸橋を渡りながら眺めると、
すこし前まで平地になっていた天現寺が新築されていた。
前に歩いたのは二年ほど前のことだったかな。

天現寺から慶応幼稚園を左折し、
白金方面に行くと、狸橋という小さな橋がある。
かつて橋のたもとにそば屋があって、
木の葉のお金でだまされて蕎麦を食べられたことが由来だって。
「たぬきそば」というのがありますね。
ぼくは蕎麦を食べられない体質なので、ほんと、知らない。
天ぷらの揚げ玉を載せたもののことをいうらしいが、
京都じゃ「たぬきそば」は餡かけで、大阪では油揚げ?

いずれにしても、この天現寺、南麻布あたりには、
かつてタヌキどもが跳梁跋扈していたらしい。

そのまま北里大学の裏手を抜けて、白金高輪駅方面へ向かう。
白金といえば、シロガネーゼなんていう人たちがいるセレブな街。
だけどぼくが歩いたあたりは様相が違う。
小さな金属工場や印刷所、自転車店や板金工場がある。
まるで下町の情景ではないか。
かつてこのあたりは「準工業地域」だったそうで、
大田区や墨田区と似た雰囲気が漂っている。
いい雰囲気です。

そしておなじみの「四の橋商店街」に出た。
ここにあるスーパーには、以前なんども来て買い物をした。
近くの宿に投宿していたことが多かったからだ。
食パンや惣菜、ビールや缶詰を買って帰るのは、
学生時代を思い出すようで、なかなか楽しかった。

地下鉄の白金高輪駅周辺まで来ると、きらきらした都会の風景になる。
いろいろな表情をみせてくれる東京だ。

facebookで石田さんが紹介していた歌にはまった。
クレモンティーヌが歌う、有名な日本の歌だ。
なんとなく、おもしろいよ。


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by kazeyashiki | 2011-08-05 10:00 | 暮らし | Comments(0)