<   2011年 09月 ( 8 )   > この月の画像一覧   

あうち!   

北摂にある某スーパーのレジで精算待ちをしていたら、ふたつ隣のレジへ、
スポーティで爽やかな女性が、あろうことかレーンを逆に入ってきた。
しかも勢いつけて。

レジ待ちしていた、これまたスラッとした女性は気づかず、まともに正面衝突。
小悲鳴が聞こえたと同時に、ふたつの姿が消えた。
どちらも倒れ込んだようだ。

「大丈夫ですか!!」というレジ係の女性の声が聞こえたが、
おれは見るのがはばかられ、精算してあわてて立ち去った。
こういう現場を見てはいけない、という気持ちが先立った。

だけど、女性がどうして逆行して来たのかは謎。



とある坂道の舗道で、坂の上から初老の男が自転車に乗ってやって来た。
結構スピードが出ている。
舗道にはそれなりに歩行者がいる。

おれの横を速度をつけて通り過ぎていったまではよかったが、
後方で「あ痛っ!」という女性の声が聞こえ、
振り返ると倒れている女性の姿が目に入った。

そして舗道脇をみると、
化粧品店が店の前に出していた商品ワゴンに自転車が倒れかかり、
運転者の男がワゴンの上に倒れ乗っているのが見えた。

推測→「速度が出すぎて自転車制御不能→女性歩行者にぶつかる→女性倒れ込む→
自転車バランスを崩しワゴンに突っ込む→初老の男動けず」ということだろう。

最近こうした事故がよく起こっている。
自転車の過失になることが多い。
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by kazeyashiki | 2011-09-14 06:00 | 暮らし | Comments(0)

インドの朝   

インドのカルナータカ州ゴカックにでかけたときの話のつづき。



ある朝はやく、その日取材するアッパイヤくんの家に到着した。
まだ夜明け前、彼が目ざめて、朝の支度をし、食事をしてから、
雇われの畑仕事にでかけていくシーンを撮影するためだった。

村の中心部からすこし離れた場所にアッパイヤの住む家があり、
家の裏には広大な平原が広がっていた。朝靄がたちこめている。
アッパイヤ一家はまだ眠っていて、おれ達は静かに待っていた。

すでに起き出した村人たちが、朝食作りのための火を熾したり、
水を汲むために、村の中心にある井戸端に集まったりしている。

すると平原の彼方から歌声が聞こえてきた。
ゆるやかな調子の、深い、女性のうたごえである。
その唄を聴いて、すぐにそれがインドの国歌であることが分かった。

「ジャナ・ガナ・マナ」という原題のその唄を、
おれは幼い頃から親しんできた。
それは、1964年に開かれた東京オリンピックのとき、
景品かなにかでもらった「世界の国歌」というレコードに収められていたもので、
演奏だけの楽曲だったが、世界各国の国歌を聞くことができた。
インドをはじめ、30ヵ国くらい収録されていた。

なかでもインドの国歌の、美しく物悲しい旋律に惹かれた。
「インドの朝」とも呼ばれていて、朝靄の平原の情景によく合った。
しばし聞き惚れていたら、インド人ドライバーの青年が寄ってきて、
「あの唄を知っているか?」と訊ねた。
「ああ、知ってる。”インドの朝”やろ?」
すると青年は微笑みながら、目を見開いた。
「いい唄やね」
「私達の誇りだ」と青年は言った。

インドは28の州から成る共和国で、方言を含めば800以上の言語がある。
連邦公用語はヒンディー語だが、紙幣には13の言語が書かれていて、
「この紙幣の所有者に100ルピーを支払うことを約束するものである」
という、ちょっと難しいことが書かれてある。

インドは先住民トラヴィダ人とアーリア人の混血種の人種の国だが、
地域によって言語、文化、風習などが異なっている。

だが、国歌にかんしていえば、
この「ジャナ・ガナ・マナ:インドの朝」によって民族が結ばれているようだ。
バングラデシュの独立、パキスタンとの国境問題などを抱えているが、
ここ中央インドの平原においては、この唄が人々のこころを捉えている。
それは美しい旋律にも拠るのかもしれない。

まだ明けないけれど、朝靄が静かに棚引く平原の彼方から聞こえる唄……
不用意に使いたくはないけれど、それはとても幻想的な情景だった。


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by kazeyashiki | 2011-09-07 09:00 | 世界 | Comments(0)

ゴカック情景   

先の文章で書いたことを写真で並べてみた。

「ゴカック・リゾート」で目ざめると何だか騒がしい。黒ヤギさんの移動中でした。
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商店を営む家では、たいがい子どもは親の手伝いをする。
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辻には屋台式の商店が出ていて、子供達が店番することも。計算はしっかりできる。
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取材したアッパイヤくん。彼は母と一緒に早朝から畑仕事をするのが日常だ。
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アッパイヤの姉ちゃんのレヌカ。ミシンに夢中〜♪妹の服を作っている最中だ。
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寺子屋の女子教室では、ろうそくを作っていた。これは生活必需品です。
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アッパイヤとレヌカが暮らしている家。土と藁で造られている。
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右からアッパイヤ、母、妹、姉のレヌカ。
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母も文字の読み書きができないので、大人向けの寺子屋で学んでいた。
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ゴカックの少女たち。
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仕事するワシ。右の人物はBIRDSの親分で、酒も肉も口にしないのだ。
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……という情景写真物語でした。
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by kazeyashiki | 2011-09-07 01:00 | 世界 | Comments(0)

インドでおれも……   

このブログに載せている写真は、インドのカルナータカ州ゴカックにある、
その名も「ゴカック・リゾート」というホテルの中庭で撮影したものだ。
撮影したのは2003年のことだから、
ずいぶん古い写真でごまかそうとしている……というわけではない。
だいいちおれは30歳の頃から容貌はそんなに変わっていない。

カルナータカ州は、
インドの西海岸の街ゴアからクルマで5〜6時間走ったところにある中央インドの州で、
農業が中心の村がいくつもあり、観光地らしきものは何もないところだ。
そして、貧しい。
この貧しさの意味すること、それは子供達が就学できないということである。
就学できないということは、文字の読み書き、数字の計算ができないばかりでなく、
社会性やコミュニケーション能力を身につけることができないということでもある。

いや、そんな能力が必要なのか?という反論はあるだろう。
こちらの価値観の押しつけじゃないか、
のんびり穏やかに暮らしている子供達に勉強させるというのはいかがなものか、
という意見もある。おれも最初はそんなふうなことをぼんやりと考えていた。
だが、現地に着き、就学できない子供達に出会って話を聞くうちに、
彼らが「学校に行きたい」と思っていること、
「先生に教えて貰いたい」と願っていることを知った。
それは通訳をとおして話を聞くという間接的な対話であったが、
彼らが本当に「学校に行きたい。勉強がしたい」
と思っていることが伝わってくるものだった。
ある子どもがこんな詩を書いた。
大意は「わたしは昨日のわたしではないわたしになりたい」。
なんだかインドらしい哲学的な言説に思うが、
この詩は、象狂象こと西岡恭蔵さんの名曲「サーカスにはピエロが」の歌詞である
「だって昨日の思い出に別れを告げるんだもの」
とどこか似ている気がする(似てないか)。

それならば、とおれは思い直した。
ここに来たのは日本ユネスコ協会連盟から依頼された「現状報告映像制作」で、
ユネスコが何をしているのかといえば、
この地域に「寺子屋」を建てる準備(基盤整備)をし、
地元の人々が自立的に「寺子屋」を運営することを支援するというものだ。
「寺子屋」とはノンフォーマル=非正規の学校ということで、
昼間働いている子供達に、夜の教室を開いて勉強しようという計画だ。
夜学ですね。

出掛けたとき、すでにいくつかの「寺子屋」の授業がスタートしていて、見学した。
大勢の子供達が、男女別で2つの教室で勉強している。
先生は、昼間の小学校の教員達でボランティアで教壇に立っている。
昼間の先生というくらいだから通常の小学校がこの村にはある。
そこには比較的裕福な、昼間働かなくてもいい子供達が、これも大勢通っている。
日本はまだマシかもしれないが、アジア諸国において貧富の差はどこにでもあるものだ。

先生が叫んでいる。「寺子屋」の生徒達が叫び返す。
なんと言っているのか?
おおよそこういうことを言っている。
先生「勉強したいか?」
生徒達「勉強したい!」
先生「しっかりできるか?」
生徒達「しっかりやります!」
先生「本当か?!」
生徒達「本当です!」
そんなエールの交換からはじまり、算数の授業がスタートする。
国語は読み書きで、
技術の授業では「ロウソク作り」や「チョーク作り」など、ものづくりも習う。
もう少し年齢が上の男子クラスでは、トランジスタラジオやミシンの分解修理、
女子クラスでは刺繍やミシンの授業があって、
いわゆる「手に職を付ける」ことを目的としている。
いいことだ。
ちなみにトランジスタラジオは中古の日本製が圧倒的に多く、
ミシンは足踏み式のなつかしいものだが、これは日本製ではなかった。

日本ユネスコが主体となっているのではなくあくまでユネスコは支援する立場で、
実際の運営管理などは現地にあるベルガウム農村総合開発協会
(Belgaum Integrated Rural Development Society=通称”BIRDS”)
がおこなうプロジェクトである。
このインドの”BIRDS”達はその名のとおりよくさえずる話し好きなスタッフが多く、
通訳、クルマの運転、食事の世話など、コーディネーターとしてよく働く。
全く日本語が喋れないスタッフの男性に、
「日本語を喋ってみてよ」と注文を出すと、
「はい、あの、もくの、がにとは、ましましです」みたいなことをいう。
爆笑だ。

「ゴカック・リゾート」には10日間くらい滞在したのだろうか。
朝早くにホテルを出て、夜遅くに還ってくる生活だったので、衣類の洗濯ができない。
そこで同行者全員でフロントに訊ねてみると、クリーニングサービスがあるという。
「シャツもズボンも洗う。パンツも靴下も洗うよ」などというので、
これは便利とばかりにたまっていた洗濯物を一袋、出す。
仕上がりはさすがに英国風なのだろうか、
下着のパンツにまできちんとアイロンがあてられている。
「ふんわり仕上げじゃないけどね」同行しているユネスコの女性たちが笑う。
「アクロンはさすがにないやろ」とカメラマンが呟く。
今は亡き森川さんだ。
洗濯料金はとても安く、たすかった。

このロケでひとりの少年の3日間を追いかけたのだが、
さいきん聞いたところでは、
少年は家族と共にどこかへ引っ越してしまい、行方知れずだという。
アッパイヤという名の15歳の少年で、
ミシンが上手な姉のレヌカと、障がいのある妹、そして小さな弟がいた。
母と祖母が彼らを育てていたが、
父親は電気工事の仕事中に感電死してしまったのだという。
アッパイヤの将来の夢は「歌手になること」だった。
夜の教室でも現地の民謡を、まだ声変わりしない高い声で歌っていた。
「歌手になれば家族を養えるから」なんて言ってたなあ。
今もどこかで歌っているのだろうか。23歳の青年になっている。

帰国してロケの話をしたら、
やはり「価値観の押しつけだろ」ということを言う者がいる。
たしかにそういう側面がないとは言えないが、
では、学校に行かずに働いて金を稼ぎ続けるのがいいとは思わない。
読み書き計算や職業訓練の技術を学ぶことは、ひとつの価値だ。
それに同じ境遇の子供達と学びながら、
話をしたり、ケンカをしたりすることで身に付くものがあるだろう。
そこが”肝”ではないかと思う。

ときどき今でも思い出す。
あのとき詩を書いた少女の言葉を。
「わたしは昨日のわたしではないわたしになりたい」……いいではないか。
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by kazeyashiki | 2011-09-06 17:00 | 世界 | Comments(0)

ヘンクツ米穀店   

近所の米穀店主とよく話すようになったのは現在の地に移り住んで来てすぐのことで、
コメを買いにでかけたときに話すようになったのである。
この店では倉庫でかなり大型の精米機が稼働し、奥には大型の玄米低温貯蔵庫がある。
子どものころ家の近所に米穀店があったので、
いつも店の前を通るときに聞こえてくる精米機の音がなつかしかった。
当時はコメと一緒に”プラッシー”を買ってもらったものだ。

昨日、その店主と話をしていたら「福島の新米が売れない」ということを話される。
この店主は結構頑なな米穀哲学の持ち主で、
山形、新潟、茨城、福島、宮城、北海道産のものが「いいコメ」と譲らず、
なかでも山形の置賜地方のコメがいいと力説する人物だ。
だから話を聞いているととても面白いし、勉強にもなる。
概して西日本のコメに厳しく、近畿圏では滋賀の近江米は認めるが、
その他は「あきまへんな」という。
横文字もあまり好きではないようで、
ミルキークインのことは「農林332号」と呼ぶ、
ちょっと変わった人、ヘンクツ米穀店なのである。

そんな店主が「福島の米がねえ……」とボヤいている。
米穀店の得意先は一般家庭にも配達しているが、周辺の飲食店が多い。
その飲食店の料理人から「福島米は……」と言われたらしい。
今年の福島の新米、早場米はすでに玄米で入荷していて、精米→袋詰めを始めている。
店にはコメから放射性物質が検出されなかった検査データを貼り、
届けるコメにそのコピーも付けるようにしていたというが、
やはり風評にはかなわないようだ。

「食べてみたけど、おいしいでっせ〜」店主はいう。
しかし消費者心理も分かる。
まして飲食店での客商売だから「ここのゴハンはどこのお米?」なんて質問されて、
「福島の……」と答えるとどういう反応を示されるのか、気にもなる。
ならば福島ではなく、四国や九州のコメである方が無難といえば無難なのだ。
そうしたコメにうるさい客もいないとは限らない。

納得いかない表情の米穀店主。
福島県の農作物は、
それが会津だろうが中通りだろうが、
福島と名が付くと、敬遠されてしまうのだろう。
厳しい現実だ。

わが家はいま、
北海道の「ゆめぴりか」と京都の非流通無農薬米(玄米)が少しずつ残っている。
これがなくなったら福島の早場米を買おうと決めた。
うちには幼い子どももいないし、
米穀店主が「うまい」というのだから、それにのっかってみようという心積もりだ。

天満橋から谷町二丁目界隈には古くから営む米穀店が結構あるが、
うち何軒かは店を閉めてしまった。
スーパーマーケットで買うコメもいいけど、
ぼくは米穀店で奨められて買うコメが好きである。
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by kazeyashiki | 2011-09-06 00:00 | 暮らし | Comments(0)

宇宙の宮   

たいへんローカルな話だけど、
昔、箕面に住んでいた頃、近くに「宇宙の宮」というふしぎな建物があって、
よく遊びにでかけた。

丸善石油所有の、宗教にこだわらない祈り、願いの場であったようで、
隣接して同社の学校があった。

「宇宙の宮」の内部には、
その名のとおり宇宙万物の神々が祀られていたように思うが、
幼い自分は建物周辺の水辺に、たくさんの亀がいたのでそれに夢中だった。

父がよく「宇宙の宮へ行こか」と誘ったことを思い出す。

今は箕面西小学校になっていて、
丸善石油の学校もなく、丸善石油自体、コスモ石油になってしまった。

ネットで「宇宙の宮」の写真を入手した。掲載させていただく。
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by kazeyashiki | 2011-09-05 12:00 | 記憶 | Comments(2)

八木重吉の詩   

八木重吉という詩人のことを知ったのはいつのことだっただろう。
おそらく中学校の図書館で見つけた詩人の本にかれの名があった。
その本を借りて夜遅くになって部屋で読んだのは十四歳のころか。

ぼくはその本を図書館に返さなかったから今も手許に残っている。
もう時効かも知れないが、これは犯罪だ。


追憶

山のうへには
はたけが あつたつけ

はたけのすみに うづくまつてみた
あの 空の 近かつたこと
おそろしかつたこと





くものある日
くもは かなしい
くもの ない日
そらは さびしい





秋が くると いふのか
なにものとも しれぬけれど
すこしづつ そして わづかにいろづいてゆく、
わたしのこころが
それよりも もつとひろいもののなかへくづれて ゆくのか
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by kazeyashiki | 2011-09-04 02:00 | 記憶 | Comments(0)

時代小説のいい文章から   

読んでいる本で、いい文章、いいセンテンスがあったら、手書きで書き写すということを高校時代からしていた。当時の国語教師が進めたからで、そのときは「ふーん」なんて思ったものだが、実際は中学生のころ、読んでいる本の一文節をノートに書いていた。

いまもそのノートが手許にあって、開いてみると噴飯ものだ。いわゆる箴言や格言みたいなものばかり書き写している。有名な「恋をして恋を失ったのは、まったく愛さなかったよりもましである。byテニソン」をはじめ、「嫉妬は、恋の姉妹である。悪魔が、天使の兄弟であるように。byブーフレール」「革命は民衆への愛のため、恋はひとりの女への愛のため。byチェ・ゲバラ」「愛する女といっしょに日を送るよりは、愛する女のために死ぬ方がたやすい。byバイロン」といった具合。

あー、恥ずかしい。

次の文章は、比較的さいきん読んだ本のなかの一文である。書名、分かりますか?

「笑いながら店先に腰を掛けたのは四十三の痩せぎすの男で、縞の着物に縞の羽織を着て、だれの眼にも生地の堅気とみえる町人風であった。色のあさ黒い、鼻の高い、芸人か何ぞのように表情に富んだ眼をもっているのが、彼の細長い顔の著しい特徴であった。かれは神田の半七という岡っ引で、その妹は神田の明神下で常磐津の師匠をしている。Kのおじさんは時々その師匠のところへ遊びにゆくので、兄の半七とも自然懇意になった。
 半七は岡っ引の仲間でも幅利きであった。しかし、こんな稼業の者にはめずらしい正直な淡泊(あっさり)した江戸っ子風の男で、御用をかさに着て弱い者をいじめるなどという悪い噂は、かつて聞こえたことがなかった。彼は誰に対しても親切な男であった。(略)
 二人は安藤坂をのぼって、本郷から下谷の池の端に出た。きょうは朝からちっとも風のない日で、暮春の空は碧い玉を磨いたように晴れかがやいていた。
 火の見櫓の上に鳶が眠ったように止まっていた。少し汗ばんでいる馬が急がせてゆく、遠乗りらしい若侍の陣笠のひさしにも、もう夏らしい光りがきらきらと光っていた。」

時代小説が好きなひとなら「半七」でピンとくると思う。
正解は、岡本綺堂の『半七捕物帳』。平明で、のびやかで、気持ちのいい文章だと思いませんか?だけど、驚くのは岡本綺堂がこの文章を書いたのが、大正6年のことだということ。全然、古さを感じさせない文章だ。

綺堂は当時、翻訳されたシャーロック・ホームズに啓発されて「半七」の物語を書き出したのだという。
上記の文は、12歳の岡本綺堂が、父の友人であるKに、旗本屋敷で起きた幽霊さわぎにまつわる岡っ引・半七の話を聞くところのもの。ここでは「岡っ引」という身分が何となく胡散臭そうに書かれている。「こんな稼業の者にはめずらしい正直な江戸っ子風男」と半七を素描しているが、「岡っ引」とは、町奉行所の与力につく同心がいて、その同心の下につく存在であり、「小者」というのが「岡っ引」の表向きの名称なんだそうだ。奉行所から給金は出るが、よく出て月に一分二朱、現代の金額でいえば25000円から3万円程度だ。これでは生活できない。だから「岡っ引」は女房名義で商売をする。湯屋や小料理屋が多かったそうだが、地方では博徒が十手を預かることもあったそうで、「二足のわらじを履く」と仲間から内心で蔑まれていたとか。

それでも「岡っ引」になりたい者が多かったのは、同心から「手形」いわゆる身分証明書を渡されるからで、これを楯に町民や商人を脅迫したり、恐喝したそうだ。つまり、悪さをするために「岡っ引」になったというわけ。そんななかでも半七さんは「まっとうな岡っ引」だった。

半七が実在の人物かどうか、岡本綺堂は笑って答えなかったそうだが、文政六年(1823)に日本橋で生まれ、18歳で岡っ引となって以来、名探偵ぶりを発揮して難事件、珍事件を解決していく。明治維新で廃業して唐物屋を営んだが、日清戦争(1894)を区切りに隠居して赤坂に暮らし、明治37年(1904)に80歳で没したという。

この時代の人物、おもしろいひとが多いですな。清水次郎長親分もそうだし、司馬遼太郎の傑作『俄』の主人公、大坂の親分である明石屋万吉さん、わたしの名前にかぶる上野彦馬さんなどもそうだ。

とまあ、いまは時代劇とは全然関係のない原稿を書いているので、筆休めのつもりで書き出したらこんなに長くなってしまった。失敬失敬。
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by kazeyashiki | 2011-09-02 15:00 | 芸能文化 | Comments(0)