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このところの日々   

つれづれなるがままの雑観を書き連ねます。



立川談志さんが亡くなられた。
おれのmacの辞書では、「たてかわだんし」と打ち込んでも、
一発で変換してくれない。「だんし」が「談志」にならない。
そういうことなんだと思うが、「?」がかすかに残った。
高座を観たことはなく、あくまでTVでの範囲でしか知らないけど、
古くから知っている気がするのは、目立った活動をしていたこと、
それにおれがこの人を見たり、話が好きだったからだろう。
三一書房の新書『現代落語論--笑わないで下さい』を読んだのはいつのことか。
奥付をみると、1987年1月31日第1版第21刷とあるから、
遅いといえば遅い。30過ぎの頃のことだ。
番組で一緒に仕事をした松尾貴史さんから何度か談志さんのことは聞いた。
「天才」という呼称は似合わない感じがする。
『現代落語論』のなかで、フレッド・アスティアに銀座で出会う場面がある。
声を掛けたものの、緊張してなにも喋れない談志。
ようやくサインだけをもらって握手をするのが精一杯。
「”オイ、みんな、アスティアがいるんだぜ。フレッド・アスティアが……”
 と叫んでやりたかった。ひとりひとりに教えてやりたかった。」
と書く談志さん。ものすごく素敵だ。
「天才」ではなく、「純才」なる噺家だと思う。



先日、ある映像制作のロケハンで湖北地方をめぐった。
琵琶湖の北、長浜周辺の小さな集落一帯だ。
ここはもう近畿圏というより北陸圏であるかのような気候風土で、
弱い晴れ間があるかと思えば、冷たい時雨がやって来る。
クルマで移動しながら、いくつもの集落を抜け、資料館に立ち寄り、
地元の人々から話を聞いた。
「近江のひとは……」と、その人柄を揶揄する言葉を何度かこれまで聞いていたが、
それはこの湖北地方に限ってのことかも知れないけど、断じて「否」だった。
初対面のおれに集落の歴史を語ってくれ、道化てみせ、涙ぐむ。
それが実に自然で、話を聞いているこちらを気持ちよくさせてくれ、
しかも感動的なのだ。
ここにこんなすばらしい人がいる、と思った。
彼らは名もなき民である。名はないが誉がある。誇りだってある。
そしてそれは決して自意識過剰とは真逆のものだった。
賤ヶ岳のふもと、遠く伊吹を望む、肩寄せ合うような集落での出来事だった。




ちくま新書の『原発と権力』を読んでいる。
このところ原発関連の本ばかり読んでいる気がする。
前の日記にも書いたけれど、TVで報道される被災地のさまざまな情報に、
どこか入り込めない感触が自分の内にあって、
批評的になっているのではなくて、もちろん辟易しているのでもなく、
しかし被災地の日々の移ろいを受け入れることができない状態にある。
情報入力ができないのだ。ということは自分のなかで編集ができないということ。
その無能さが、本を読むことでカタルシスを得ようとしているのかもしれない。
東北の農家の人々にもっと話を聞くことが大事なのだといま、考えている。
年の暮れ、行けるならば被災地へ出かけ、この一年の話を聞いてみたい。



馴染みのBARが、しんどいという。経営的なことだ。
そうした風聞に動かされるなら、ただちに店を訪ねるのがいちばんなのだが、
その余裕がない、情けないことに。
fat氏によれば、いずこも同じように、しんどい状態ではないかという。
ミナミのBARにしても、以前のように客が入っていないそうだ。
年齢的に、仕事終わりで一杯ということがままならなくなり、
経済的なことも含め、日々の動きが狭まっていることは自覚している。
こういう状態が自分にとって決していいことではないとも自覚している。
そんなことを思いながら、ひたすら歩いている。



自宅のプリンタがいきなり壊れてしまった。
ひげ剃りも充電機能がダメになり、ぷよねこ氏おさがりのPowerBookG4も、
CD&DVDのスロットル部分がうまく作動しなくなってしまった。
機械類が連鎖反応を起こして不具合を訴えかけて来たのだ。
こうした現象を「共振作用」と呼ぶのだろうか。
プリンタとmacは連鎖しているけど、ひげ剃り機は関係が薄いよなあ。



facebookで石田雄一さんが紹介していた花*花の歌、詩がいい。


「なんにも無い街」(PICTGRAPHより)

詞・曲:コジマイヅミ



暮れなずむ夕日の向こう 

思い出すのは あなたの顔

またねと手を振って 消えてゆく帰り道

工場のあたりから 聞こえてくるチャイムの音

石ころを蹴りながら 明日のことだけ考えた



大人と呼ばれる歳になって 

新しい場所にも人にも出会った

だけどね今も思い出すのは 煙突と川が見える街



帰ろうか 帰ろうよ 

期待なんてなくてもよかった

なんにも無いあの街へ 電車に揺られて

帰ろうか 帰ろうよ

泣きたければ泣けばよかった

なんにも無いあの街へ 電車に揺られて



大人と呼ばれる歳になって 

正しいことにも嘘にも出会った

だけどねいつも思い出すのは 煙突と川が見える街



帰ろうか 帰ろうよ 

かっこなんてつけなくてよかった

なんにも無いあの街へ 電車に揺られて

帰ろうか 帰ろうよ
泣きたければ泣けばよかった

なんにも無いあの街へ 電車に揺らて

……叙事から抒情の前線がジワーっとにじんでくるようで、
切ないけれど、どこかスコンと抜けた青空がひろがっていて、落ち込まない。
そんな詩だ。いいなあ。



明日から12月。
撮影の仕事があって、また湖北地方へ行く。
スタジオでの撮影、そして編集、シナリオ改編などの作業が続く。
ほかの仕事も、ある。
気をつけるべきは、風邪を引かないことだけか。
まだまだ55歳は「ひよっこ」(宮城の農夫たちの弁)なんやそうです。
そのつもりでやっていきますか。
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by kazeyashiki | 2011-11-30 17:00 | 暮らし | Comments(0)

これまでずっと……   

3月11日に震災が起こり、以降しばらくの間、この未曽有の大地震による被害、さらに自然災害に呑み込まれたように引き起こされた人災である東京電力福島第一原子力発電所の事故と、それによる甚大な被害について、友人たちと多くを語り、時には口論し、情報に振り回され、被災地のことを思い、1ヶ月後の4月初旬に宮城、福島へと足を運んだ。そしてその後も5月、6月、7月、10月、11月と岩手、宮城、福島、茨城へ出かけて、その地域に暮らす友人や、見知らぬ人たちと話した。ガレキ撤去も少しだけだが手伝い、避難場所の体育館にいる年配の方々と話した。
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そして今、震災から8ヶ月が過ぎている。テレビでは連日、被災地のさまざまな情報が伝えられているが、以前よりそうした情報を進んで見ようとしなくなっている自分がいる。いや、正確にいうなら「もう見たくないのだ」という気持ちがあることを白状したい。非難されるべきことかも知れない。しかし被災地でいまだに不自由な暮らしを続けている方々や、親兄弟親戚友人を失って傷を心に隠し持つ人々のことは、自分のなかでは気になっていることは確かなのに、テレビから流れてくる情報(そこには「いまだに」という言い方もあれば「ようやく」という言い方など、さまざまあるのだが)、自分という器が、今回の震災の情報を受け入れる容量が一杯になってしまっている、という言い訳を自分にしているのである。「これ以上、もう注げない」という気持ち。これは弱音かも知れない。
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先日、岩手県のある町の小学校へ出かけた。そこで先生たちの話を聞く機会があった。「私は今でも、これからのことをどうしていいのか分からないのです」と、ひとりのぼくと同世代の教師が言う。町は大きな被害を受けた。生徒も父兄も教員も犠牲になった。町から出て行った家族もいる。だが、学校は始まり、授業が進められている。しかし彼は、「今までと同じ」ではないということを言いたいのだ。生徒も教師も、震災以前のように授業をおこなっているにもかかわらず、確実に「以前とは違うなにか」を感じている。それは生徒のなかにも存在する感覚でもある。「先生たちが感じているストレスやプレッシャーを解消できるようなプログラムはあるのですか?」と聞くと、その教師は「プログラムはありません。それが必要だとも思いません」と、強い口調で言った。そうした提案というか、こちらの言い方を非難する感じだった。
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「本当にいろいろなこと、生徒ひとり一人にいろいろなことがあって、それでも学校にやって来た彼らは笑顔を見せるんです。その笑顔の裏側にあるものが分かっているので、私たちはどうすればいいのか分からないのです」というようなことを彼は言う。東北人は粘り強く、耐える力があるという言い方をするけれど、それが却って彼らの重荷になっているのではないかとぼくは思った。「心のケア」なんて言葉は何だか空虚だとも思った。
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震災が起こって少ししてから、宮城県の農家である佐々木さんからメールが届いたことが、現地に行きたいと思った第一歩だった。地震発生直後から何度かメールでやりとりし、何通目かに、こんな内容のメールが来た。「田んぼにガレキ、海水が溜まっていて、気の毒で見てられない。4月7日に東北地方のコメの生産調整の見直しが発表されますが、種籾の手配がどうなるか分からない。浜の方の生産組合で頑張っていた仲間が津波で亡くなり、作業場も農業機械も全部流され、30年かけて築いてきたものが一瞬でなくなってしまった。なんとも言えない。残された我々が頑張らないと、と思うのだが、身体がいうことをきかない。震災の後遺症で、やる気になれないのが現状、本当の気持ちです。」そして「心が折れそうだ」とも書いておられた。
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今年、佐々木さんの家の田んぼは例年通りの収量があった。収穫したコメからは放射性セシウムは検出されなかった。だけど、佐々木さんは風評のことを気にしていた。福島、宮城、岩手の米、農作物というだけで敬遠される状況がないとはいえない。げんに、福島産のコメからは国の暫定基準を超える放射性セシウムが検出されたというニュースが流れた。しかしこのニュースに対して、自分でも情けないくらい反応が鈍かった。「やはりそうか」というものだった。憤りは感じる。それは東京電力に対してだが、この巨大な企業のこれまでの姿勢を見てきて、漠然とした無力感を抱かざるを得ないのだ。それは政府関係の原子力事業の管理団体に対しても同じだ。「福島の米からセシウム検出」という事実が、自分のなかで軽くなっていることが不甲斐ない。今年一年をかけて稲を育ててきた福島の農民にとって、この結果はあまりにも、むごい。感情論でいえば、子どものように育ててきたコメに「×」をつけられたことでもある。
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震災以降、友人たちとメールのやりとりを繰り返した。電話で話し、居酒屋で語った。そして被災地へ行き、ひとりでさまよい、農地を中心に写真を撮った。地元の人と立ち話をした。そうした記録をまとめるために、時間軸に沿って構成を組み立てている。地震発生直後からのメールのやりとりや、自分が書いた文章を読むと、自分が理性的ではなくなっている点や、感情論で突っ走っている点、デマに惑わされている点など、多々ある。しかしそれが記録なのだ。それをたどっていこうと思う。これまでずっと考えてきたこと、思ってきたこと、忘れてしまいそうなこと、忘れてしまったことを呼び起こして。
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by kazeyashiki | 2011-11-22 18:00 | 世界 | Comments(0)

2011年11月18日   



Y社のシナリオ書き直し、震災映像の取り込み作業と震災に関してこれまで書いた記録や交わしたメールを時間軸に沿って並べること、手紙数十通、ユネスコ関連の方向性、『さいごの色街 飛田』の著者井上理津子さんへのインタビュー第2弾テープ起こし、夏の講義の際の生徒からの相談事など、それなりにやることはある。だけど、どっか”創造的な回路”(そないなもんあるんかいな)を使っていないような気になって仕方がない。焦っているんかなあ。まあ、本はそれなりに読んでいる。新しい本を何冊か区の図書館で借りてきた。これまで読んだことのない分野(ビジネス書やスポーツ関係、電気技術関係といった具合)の本もある。人に勧められたからだ。そういうのも亦楽しい。



TPPに関しての議論を新聞とネットを中心に拾い読みしているのだが、日本の農業の現状と将来を考えれば感覚的反対、時代の趨勢というか状況論的にはTPPに参加することもあり得るようにも思える。どうにも始末が悪い(自分の思考の精度が悪いのだ)。農家にブランド品を作って輸出して儲ければいいというような暴論には閉口するんやけどね。



資料整理をしていたら、劇団時代のノートを見つけた。稽古場の連絡帳だったが、いつのまにやら日直当番者の日記になり、劇団員達があれこれ思うことを書き込むようになった。時代は1986年だ。25年前、ひえ〜、四半世紀前の「役者の手記」だっせ。そのなかにチェルノブイリの事故のことが書かれている。1986年4月26日に発生した原子力発電所事故。「死の灰が降ってくる!みんな逃げろ!」と、だれの文字か分からないが叫んでいる。「原子爆弾が落ちたのんとおんなじことでんな」というのはW君か。「ソ連は事故のことを伝えず、被害はそれほどでもないとか、わが国の技術は正常だったということばかりくりかえしてる。信じられへんなあ」と書いたのはおれだ。今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故でも似たような言葉を聞いた。



先日久しぶりにミッション車を運転した。スカイラインのクーペタイプだ。短い距離だったけど、楽しかった。やはりクルマはミッションでんな。こんなに”運転してる”という感じを与えてくれるもんはないです。新しいスカイラインはごっつう加速がいい。トランスミッション6速も初体験だった。

スカイラインといえば、まだおれがようやく歩き出した頃(まだ今かて自分の足で歩けてへんやんけ、ということを言う者もいるかも知れぬが)このクルマと、あと、ヒルマンミンクスの前に立って写された写真がある。まだプリンス自動車時代(日産との合併は1966年)のスカイラインで、ハコスカの一代前、S50D-1型というらしい。レースにも出て活躍した名車で、テールはスカイライン独自の丸形だ。このスカイラインの前で、嬉しそうに笑っているおれ。クルマが好きだったのだ。

もう一台が、ヒルマンミンクスだが、こちらはいすゞのファミリーカーで、箕面桜の家の隣家である森本さんのご主人の愛車だった。二代目のPH100型という車種で、ツートーンカラーが美しかったな。英国車風のデザインだったと調べてみたら、英国ルーツ社と提携して開発されたという。今はもうルーツ社はない。クライスラーが買収したんやて。ともかくいすゞヒルマンミンクス、やはりこの”ミンクス”という名前の響きに、ガキながらシビレました。「高〜級〜!」って感じやもんね。後日、ミンクスはジェミニで甦ったけど、「ジェミニにミンクスはないやろ」なんて思った。いずれにせよ、ヒルマンミンクスなき後に登場したのが、かのベレットである(ベレルもあったけど)。いわゆる「ベレG」……ユーミンの歌にも登場する名車やね。おれはこのクルマを二度、運転したことがあって、いろいろな名車を運転したが、ひときわ印象深いのがこのベレGだ。とにかく車体が軽い。だけど加速がいいんで、気持ちいい。ヒルマンミンクスの後継車と言われていたが、全然コンセプトが違うやん。いいクルマでした。その後、いすゞはさらに名車を生み出す。「117クーペ」である。

一時この117がほしくて、当時いすゞのディーラーに勤めていた親戚のまりちゃんに融通してもらおうとしたことがあった。「安い中古があったら絶対押さえてね」なんて頼んでいたけど、人気車ゆえになかなか入ってこない。来ても高価すぎ。結局あきらめた。今でもときどき晴れた日の午後などにこのクルマを街で見かけることがある。117のオーナーたちは、雨の日にはクルマを出さないという噂だ。なぜなら結構錆びる部分がこのクルマにはあるからだとか。



思わずクルマの話で熱くなってしまった。
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by kazeyashiki | 2011-11-18 23:00 | 暮らし | Comments(0)