<   2012年 01月 ( 13 )   > この月の画像一覧   

伯父について   

「伯父の不在」ということを考えている。自分に関してではなく、日本社会を自分なりの狭小な視線で見ての話である。なぜそんなことを考えるのかといえば、司馬遼太郎と林屋辰三郎の対談を読んでいて、そのなかで司馬が次のように言っていたことがキッカケだ。「戦後、日本で失ってならないものがいろいろ失われたけれど、伯父というものがなくなったのもその一つだ」と、司馬の友人が嘆いていたという。

伯父というのは、自分の父母の兄、もしくは姉の夫である。一方、叔父というのは弟、もしくは妹の夫にあたる。

伯父というのは、分家からみて本家の当主であり、いろいろ家の面倒をみる立場にあった。たとえば分家の息子が「大学に行きたい」といえば、学資を出すというような具合に。しかし今の社会、家の制度自体が崩壊し、伯父の存在もほとんど見えなくなってきている。

だが、と司馬はここで断りを入れている。
「それが西日本出身の私にはピンとこなかった。〈へえ、関東では、そんないいことがあったのか〉と私は言ったのですが、西のほうは、概して伯父なんてものは頼りにしていない。伯父が一族郎党のめんどうをみるという伝統が薄かったものですから。ひとつには西日本には、近世が早く来て、土地が細分化されて、大本家というものがなかなか成立しにくかったということはありますね。しかし大雑把に言えば、血族社会の義務として本家というのものが厳然としてあったというのは、ごく最近の関東の風ですね。」

東日本は父系社会、西日本は母系社会であるという説がある。ふたたび司馬の発言。
「関東が父系社会であったということにも、同じような関連が考えられますね。西日本は多分に南方的な母系社会のにおいが強い。かつて西日本を中心として若衆宿や妻問の風習がありましたが、これは母系社会の民俗ですね。
 ところが関東というのは、厳格な父系社会のにおいがする。そしてそれは、どちらかというと、地理的には北アジアから関東に入ってくる太い何かを感じさせますね。
 関東を考えるうえで、頼朝が下限ですから、そのことでいうと、稲荷山鉄剣から急に下限に話が移るわけですけれども、頼朝は父系社会で育って、父系社会の文化を身につけている。生まれは近畿ですけれども。一方、義経は母系社会で生まれた。母系社会で生まれると、嫡庶の別は曖昧になるのでしょうね。ですから頼朝を兄貴だ兄貴だと思っているけれども、父系社会の中では、そこに厳然として一本の線がひかれていて、頼朝からみれば義経は家の厄介人であり、家人となるべき人間です。まして母親の違う弟、そういう者が自分と同格のつもりでやって来るのはがまんできない。
 京都の公家というのは、兄貴も弟もそんなに差はないわけですけれども、関東の父系社会というのは継承に伴う序列がきちっとしている。これをいきなり朝鮮半島や北アジアの制度と比較するのはムリかもしれませんが、たとえば朝鮮半島や北アジアでは、骨は父親から、肉や血は母親から受け継ぐと考えていた。そして最も大事なものは骨であると。
 朝鮮語で骨のことは「ポン」といいますが、ポンはまさに本貫のことで、これは家の系図の骨格のことを言うようです。やっぱり骨ですね。日本語の骨と、ひょっとすると語源は同じかもしれません。日本語の場合も、奈良朝以前は、骨のことを「ポネ」と言っていましたからね。それはともかく、ポンを大事にした「満州」あるいは北アジアにいた遊牧民も、やはり父系中心であって、母系はまったく考えられない。南方とはまったく違います。そういう北方の血縁社会制度が、関東に反映しているように思いますね。」

おれの場合、父母ともに長男長女であったために、伯父は存在しない。たとえいたとしても、西日本出身者である父母の系統であるため、伯父の存在は大きくはなかったにちがいない。

日本という国の社会、家族制度というものは、ある意味で大きく瓦解している。それがいい悪いという判断をここでするつもりはないのだが、たとえば地方都市などへ行けば、こうした家族制度、血族制度が息づいていることに触れることがある。瓦解したとはいえ、他者からは見えない領域でこの制度がきっちりと(隠されたように)存在していると想像する。なかでも農家、農村について考えるとき、この制度に抵触せずに考えないわけにはいかないだろう。むろんそれは、農作業という重労働(機械化が進んだとはいえ)をおこなうための協力体制には、地域共同体の者たちよりも、一族郎党、血族関係者の方が上位に置かれる。それによって日本の農業が成り立っている。いや、成り立っていたと過去形で書く時代に入ろうとしているのかもしれない。

「伯父」の存在は、東西の文化、父系母系社会の構造の違い、武士の登場(林屋は、武士ではなく名主と言うべきだと述べている。つまり農場主)など、この国の歴史とも連関するように思う。

考えがまとまらない、ということは、まだ書いてしまうのは早すぎる内容であり、不可解な文章になってしまった感がある。思考の途次だとご容赦願いたい。
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by kazeyashiki | 2012-01-27 10:00 | 世界 | Comments(0)

卵料理   

外食で、立ち飲み処や居酒屋でときどき、出汁巻き卵を食べる。
うまい。
やさしい味がして、つい箸がすすむ。

ホテルに泊まった朝、バイキングスタイルの朝食があると、
思わず目玉焼きやスクランブルエッグを食べる。
あの黄色くて温かくてやわらかな形を見てしまうと、つい手が伸びる。

牛丼は年に数回しか食べないけれど、
生卵や温泉卵を頼んでしまうこともある。
なかなかにうまい(三上寛風)。

だが、家ではあまり卵を消費することがない。
10個入りのパックを買うと、しばらく冷蔵庫にいてはる。
長居することもあって、鮮度が気になる。
古くなってしまうとキケンかな……などと思う。
家人はそれなりに工夫して卵を使って調理しているようだ。
だが、基本的にあまり好きではないのかもしれない。

箕面の住んでいた頃、
だから小学生の頃なんだけど、
出汁巻きではない、ふつうの卵焼きは日曜日の朝食だった。
「日曜焼き」なんて言っていた。
当時は卵が高かったのだろうか。
毎日食べるということはなかった。
店で6個くらい買うと、新聞紙に包んでくれた。
お使いのときなど、割らないように慎重に家路をたどった。
白い殻より、赤い殻のものの方が高級だと思っていた。
今でもそうなんだろうか。

目玉焼きは、稲見一良さんの小説に時折登場したと思う。
小説の中に出てくると、無性に食べたくなった。

ふしぎな魅力がある卵。

ぷよねこさんの日記http://d.hatena.ne.jp/shioshiohida/を読んでいて、
卵のことを思い出した真夜中でした。
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by kazeyashiki | 2012-01-23 03:00 | 暮らし | Comments(0)

ふゆの雨   

10月から掛かっていた仕事がようやく終わった。
第8稿まで番号を振ってシナリオを書き直したけど、
その後は最終直前稿や最終決定稿などに文書名を変えたので、
何度書き直したのか分からなくなってしまった。
ロケにも立ち会って、ずっとこの映像に関わってきた実感があった。
しかし最後の仕上げは演出の仕事だ。
だんだんと手の平から砂がこぼれていくように仕事が終わった。

そして、後処理をしたその夜に悪寒に見舞われ、発熱した。
薬をのみ、ひと晩じっくり寝ると翌朝には平熱になっていたけれど、
これからのことを考えると、寒気がした。
先の仕事の予定がまったくなくなっている。
遠ざかっていく風景の前に立ち尽くしているような感覚になった。

今日はつめたいふゆの雨が朝から降り続いている。
ユーウツだなあ。
身体の調子が悪いので思考がどんどん負の方向へ流れていく。
これはいかん。
そう思いながらもなかなか立ち直らせようとしない自分がいる。
もちろん故意にだ。

しかし、昨年からの仕事が終わって区切りをつける時期であろう。
ここから新しい年のはじまりと考えよう。

こんなときは、『鬼平犯科帳』を読むと気分がよくなる。
『剣客商売』でも『梅安』でもいい。
池波ワールドに身を置くと、気持ちが変わるのだ、単純に。

あすは晴れてくれい。
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by kazeyashiki | 2012-01-19 22:00 | 暮らし | Comments(0)

1月15日   

昔の京都では、今日1月15日は女正月と呼ばれていたと、
かつてどこかで読んだ。
正月の間いそがしかった女性達が、ようやくゆっくりできる時期だとか。

すでに世間は正月気分が抜けています。
コンビニには節分の恵方巻の広告チラシが貼られているし。

朝から自主制作記録映像のシナリオをさわる。
どうしても足りない部分が多々あって、再度現地へでかけたい。
その計画を立てよう。
今からこのシナリオ構成改訂のため、新聞を調べに図書館へ。
休日だからすこし混雑しているだろうな。
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by kazeyashiki | 2012-01-15 11:55 | 暮らし | Comments(0)

冬の日   

昨晩は西天満の鶏料理店で男4人で痛飲。
N氏、K氏、Y氏。
アフターアワーズで飲みなおす。
府政についての憤怒。
K氏の言葉にみずからの緊張のなさを思い知る。

翌土曜日の今日は朝から、本を読んで過ごす。
歴史評論1冊、紀行1冊、短編小説集1冊。
眼が疲れた。
夜になって録り置きの映画を観る。
フランスの古い映画。

明日は朝からでかける。
朝食はリンゴらしい。
そういうふうにもう決まっている。
米屋でもらった山形産の赤いリンゴ。
とてもうまいそうだ。

来週からいそがしくしたい。
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by kazeyashiki | 2012-01-14 22:53 | 暮らし | Comments(0)

ベッドのある暮らし   

小学校を出るまで、ずっと畳の上に布団を敷いて寝ていた。
夏は蚊帳を吊り、冬には豆炭のアンカを足許に入れた。
押入から布団を取り出すのは、幼い者にはひと苦労だった。
その頃の布団は、敷き布団も掛け布団もとても、重かった。
蚊帳はみんなで吊したし、アンカの豆炭は母か祖母が火を熾した。
掘り炬燵は家になく、いくつかの火鉢が暖房器具だった。
今からは考えられないような季節の過ごし方をしていたものだ。
ほとんどの日本人の家庭はそうだったと思う。

中学生になって引っ越して、自分の部屋を与えられた。
これまで家族や親戚一族と同居して来た者にとって、瞠目すべきことだった。
「個」という概念になかなか馴染めなかった。
与えられた部屋は和室だったが、ベッドをあげると隣家の人に言われた。
それが初めてベッドに寝起きする体験だった。
もらったベッドは隣家の主人が独身時代に使っていたアメリカ製で、ごつかった。
太い鉄のフレームにギシギシと鳴るスプリングで、その上で飛び跳ねた。

須賀敦子さんの随筆に「ベッドの中のベストセラー」というのがある。
麻布の家に住んでいたとき、
八畳の間に二台の大きなベッドを置いて妹と寝ていたという。
「その当時にすればベッドを使うことだけでもめずらしかったに相違いないのだけれど、それについたやはりアメリカ製のマットレスが、スプリングのはいったぶあついもので、小学生の私や妹が裏返そうとしてもびくともしないで、かえってこっちが跳ねとばされて、ひっくりかえったりした。」(『遠い朝の本たち』ちくま文庫)

おれも似たような代物だった。
お隣へベッドを引き取りに行き、運び込むのに大汗を掻いた。
だが、使い出せばこんなに便利なものはないと怠惰な中学生は実感した。
布団の上げ下ろしの必要がないからだ。
昼間はソファ代わりにもなったし、いつでもゴロンとできるのも嬉しかった。

大学に入学して下宿するようになるとベッドを作ることを教えられた。
「麒麟ベッド」と多くの学生は呼んでいたのではないか。
ようするにキリン麦酒の瓶ケースを6つ並べ、そこにコンパネを載せ布団を敷く。
プラスチックの瓶ケースは酒屋から失敬してくるのだ。
夜中、下宿の仲間2人に手伝ってもらい、1人2個ずつ持って返って来る。
コンパネは工事現場から、やはり失敬してきた。
泥棒である。
ビールケースとコンパネを針金で固定してずれないようにして完成だ。
ベタ座りの下宿の部屋が、それだけで一気に洋風と化した(ような気がした)。
日本酒の一升瓶のケースを使う者もいた。
こちらは背が高いため、横向きに置いて作っていた。
ビールケースより若干低くて、それはそれでなかなかいい感じでもあった。
大学時代(おれは6年もかかった)は、ずっとこの「麒麟ベッド」だった。
「アサヒ」や「サッポロ」「サントリー」だったかもしれない。

先日、母のケアマネさんと面談したとき、ベッドの話になった。
母は布団で寝起きしているのだが、最近、ちょくちょく転倒することがある。
とくに布団から起きあがるときに身体がよろめいて、そのまま布団の上に倒れるという。
医師からもベッドにした方が安全だと以前に言われていた。
母は介護度一級なので、ベッドを借りるためには医師の診断書と市役所の許可が要る。
レンタル料金も必要だ。
だが、転倒してひどいことになるくらいなら、やはりベッドの方がいい。
「ベッドにしますか?」
と、耳が遠い母に筆談で尋ねてみると、「いやだ」という。
ベッドで寝起きするのは入院生活を何度もおこなっている母には馴れているはずだ。
だけど拒否する。布団の方がよく眠れるという。
そりゃそうだろう。人生の大半を布団で睡眠してきた者だからその気持ちは分かる。
須賀さんも随筆に書いていた。
「はじめて寝た晩など、私も妹も、大川に流れ出したササブネみたいにたよりなかった。」
母もベッドで寝るのは落ち着かないのだろう。
便利で安全なんですけどね。
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by kazeyashiki | 2012-01-11 11:33 | 暮らし | Comments(0)

木村蒹葭堂   

調べものがあって、また北堀江にある大阪市立中央図書館へ行く。
休日なので来館者が多く、大半の席が埋まっている。
だが、空間設計がいいのか混雑感はない。
4人掛けデスクに座り(もちろんほかの3席は座っている、年配者2名、大学生1名)、
ゆったりと資料を読み、書き物をすることができた。

途中、珈琲タイムで屋外に出たとき、敷地の片隅に顕彰碑を見つけた。

木村蒹葭堂(けんかどう)である。
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この人物は、大阪在住の人なら一度は耳にした名前かもしれない。
江戸中期の文人であり、蒐集家であり、本草学者であり、博学者である。
元々家業は酒造業であるが、酒造株を他人に賃貸して生活の糧を得ていた。
年に三十両の収入だったというから、中流の下の方の暮らしだった。

だがこの多趣多才な男、妻と妾と同居しているのである。
本妻は結構嫉妬深かったようだが、それでも妻妾同居をやめない。
三人で長崎旅行などもおこなったという。
このほかに娘が一人、下女一人の五人暮らしだったというが、
女性ばかりのなかに住んでいたということだ。
なかなかの人物である。

27歳で『山海名産図会』を著し、その後さまざまなジャンルの書を上梓する。
『銅器由来私記』『桜譜』『禽譜』『貝譜』『秘物産品目』『本草綱目解』等々。
たまたま先ほど、NHKの「ダーウィンが来た」という番組で、
”イッカク”というふしぎなクジラを特集していたが、
ここに登場する日本の古文書は、蒹葭堂が編纂した『一角纂考』だった。
また、文学にも精通していて、漢詩を書き、書画もうまかったという。
語学では、オランダ語やラテン語も解したそうだ。

諸国から来る者に蒹葭堂の名前は知れ渡っていて、多くの来客があった。
本人はそれに困惑し、「人気があるのも困ったもんや」と言ったところ、
朴訥だが口が悪い友人に、
「お前に人気があるんやなく、お前が持っている物に人は寄って来るんだ」
と言われて、大いに恥じた……と書かれている。

蒹葭堂とは、彼の書斎の名称である。
ケンカ早い人だったわけではないようだ。
同時代の友人には、司馬江漢、上田秋成、頼山陽、本居宣長、
伊藤若冲、与謝蕪村、円山応挙、平賀源内などがいて、
1700年代後半という時期に、町人文化、都市文化が花開いたかが分かる。
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by kazeyashiki | 2012-01-08 23:59 | 芸能文化 | Comments(0)

人物素描録   

19歳のときだったか、
一乗寺の下宿の先輩にこんなことをいわれた。
「知人友人録を作るといいよ」。
友だちについてのスケッチみたいなものを作っておけば何かに役立つ、
というわけだ。

まだその頃おれは芝居をしていなかった。
ただ、ものを書くのが好きで、
学生が集まって作っていた同人の詩誌に参加していた。
まずその同人仲間の肖像を素描してみた。
趣味や、好きな詩人、作家、音楽などを数行書いた。
そして全部で10人くらいになっただろうか。

ちょうど、この年の暮れに大学内で劇団を結成した。
何人かの志望者が集まってチラシを撒くと、たくさん集まってきた。
そして上演することになって、しばらくは既成作品に頼ったが、
オリジナルもやりたいという気持ちになり、初めて戯曲を書いた。
「月光物語」というタイトルである。
一種の幻想物語で、稲垣足穂の物語に影響を受けたものだ。
だが、甘ったるいロマンスなんぞもたっぷりあって……
思い出すだけで、穴があったら入りたい、
なければ掘ってでも入りたいくらいの作品だ。

これを書くときに役立ったのが、「知人友人録」であった。
人物造形を、すべてここから採用した。
だが当時、女性の友人などいなかったので、
高校時代までに知り合った人たちを思い出して書いた。
4〜5歳のとき初めて好きになった子、小学生低学年のときの子、
高学年のとき、中学生になってから、そして高校時代のあの娘、
といった女の子たちだ。そこから人物像を創り上げた。

「この娘なら、こういう時、こういう言い方をするだろう」
「こう言われると、彼女ならこう反応する」
「落ち込んでいると、あの娘はこんなふうにして励ますだろうな」

そういう空想というか、ほぼ妄想の世界で芝居を書いた。
書きやすかったし、思い入れをこめて書くことができ、冷静さを欠いたこともあった。
だが、この手法はいまでも成功だと思っている。

以来、知り合って自分の内に残る知人友人についての素描録を続けている。
趣味、性格、言葉などを記しただけのものだが、読むとなかなか面白い。
最近はちっとも書いていないので、とりあえずデスクの上に置いておこう。
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by kazeyashiki | 2012-01-07 23:59 | 記憶 | Comments(0)

仕事はじめ   

ひとりでする仕事、ものを書くことは別件だとすれば、
実質今日が仕事はじめ。
ジャケットを着て打合せに出かけましたさ。

年始の挨拶もそこそこに、すぐにシナリオの訂正打合せ。
やはり、振り子のようにこちらが直した部分が元に戻っている。
こだわる思いは貫徹されているということか。
だけど絵がないのには困ったものだ。
構成作家は、書くには書ける。
だけど映像が明確にあるかどうかまでは難しい。
なんと無責任なことか。
映像(絵)があってのナレーションである筈なのに、
SPにはどうしてもこうした語り先行という無理が伴う。
それを越えてのプロなんだけれど。

平面媒体にものを書く場合だとその出典が重要である。
だが、これはさほど難しい問題ではない。調査すればつまびらかになる。
もちろんそこには文体の妙という研磨の技が必要であったりするのだが。

さいきん、短い物語を空想のなかで作っていることがある。
そろそろ表に出す時期だろうと思う。
仕事をしはじめて気がつくこうしたこと。これも一種の逃避行動だろうな。
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by kazeyashiki | 2012-01-05 23:59 | 素描 | Comments(0)

初歩き   

睦月四日。今日は、よく歩いた。
谷町二丁目→なんば→大阪市立中央図書館→梅田→天神橋六丁目→谷町二丁目。
途中、横道に逸れたりして、冬の大阪を堪能。
だけど、全行程で12〜3キロってところか。
京都の東寺まで歩いた距離は、約40キロだったから、
それに比べたら大したことはないなあ。
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by kazeyashiki | 2012-01-04 23:59 | 暮らし | Comments(0)