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われわれ国の民は   

白川静さんの『常用字解』の「民」の項目を引くと、こうある。

「象形。目を刺している形。金文の字形は眼睛(ひとみ)を突き刺している形で、視力を失わせることをいう。視力を失った人を民といい、神への奉仕者とされた。臣ももと視力を失った神への奉仕者であり、合わせて臣民(君主に従属する者としての人民)という。民は神に仕える者の意味があったが、のち「たみ、ひと」の意味に用いる。」

今回の震災で、政府や電力会社はさまざまな形で情報を公開しなかった。今もそうだ。国民に教える必要などない、という感覚があるのだろう。「民」とは盲目であること、そう考えると彼らが情報を公開しないでいることが、まさに国の民に対する正常な(?)態度であることが頷ける。「民草」なんていう言葉を思い出す。人間を草に喩えているわけだね。すると「根無し草」という言葉も連想してしまう。過日、fatfat氏に「デラシネ、根無し草」ってことをいったら、「いまどき、その言葉が分かるヤツは少ないデ」といわれた。確かにそうだ。

英語やフランス語、ドイツ語では「民」のことはどういうのだろうか。またその語源はどうなんだろう。中国語では、あまり日本語の「民」の語源と変わらないのではないかと想像する。

震災のことを考え続けている。しかし到達点というのか、結べる思いに到らない。震災の前と後では何が変わったのか、何が変わらなかったのか?突然の、予測不能な揺れと津波によって多くの命が奪われた。突然の死を迎えた人々、そのとなりで死を免れた人々。そしてその後に来る福島第一原子力発電所のメルトダウン、放射能汚染……。1年以上の時が過ぎたというのに、まだ何も変わっていないものがある。それはこれからも「変わらない」のだろうか?

当事者が遭遇した絶望感、それは1000キロ離れた自分には分からないものだと思う。だが、自分なりに感じた絶望感があった。それはTVを通して見たものではあるけれど、いきなり地震に見舞われ、津波に押し流されて死を迎えた人々の、その人生への思いからはじまったものだ。

これまでに自分は幾人かの人たちを見送って来た。それは2004年4月の父の死からはじまったことと言ってもいい。それから中学時代の、大学時代の、仕事関係の、バンド仲間の、芝居仲間の……と、失う体験を重ねてきた。そのなかの数人は、突然の死であった。いや、死はいつも突然ではあるだろう。だれも「死ぬ」ことを前提にして生きているとはいえ、そこには「生きる」ことがあり、「死」はその向こう、目視できない地平の彼方にあると考えている。たとえ入院していても、それは治療し、復活することを計画している。だが、病がその人物の内側にあることを周囲の人々は知っている。「死」を予測している、覚悟している、というのだろうか。だが震災で命を奪われた人々はちがう。そこに感じた絶望感がある。

今日も図書館に出かけ、震災に関する本を何冊も読み、借りてきた。そのなかに、佐野眞一さんと和合亮一さんの共著『言葉に何ができるのか−3.11を越えて』がある。佐野さんは著名なノンフィクション作家。和合さんは高校教師で詩人、福島在住者だ。彼は被災後、ツイッターで被災状況を発信し、やがてそれが三部作の本としてまとめられた。『詩の礫』『詩ノ黙礼』『詩の邂逅』だ。その一編はメディアにも載ったので知っているひとも多いだろう。

〈放射能が降っています。静かな夜です。〉(『詩の礫』3.16 21:30より)

震災から5日後に書き記されたこの言葉、どこか中原中也風のイメージがあるが、これが書かれたのが福島であることを思うと、底知れぬ恐ろしさを感じる。言葉の放つ恐怖。それはこの詩が書かれた日時を認識した上で感じるものであり、その静寂感に深い怖れを抱く。それは三好達治の「雪」にどこか通底する感覚でもある。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む。」ここにある静けさ、あるいはもっと進めて、死まで行き着いてしまう感覚、そこに重なる。

佐野眞一は震災に関して、被災地に広がる瓦礫が、精神の瓦礫になってしまうことを危惧しているが、東北は言葉の宝庫である。大阪にいると聞くことのない方言がある。茨城、福島、宮城、岩手とイントネーションが違う。その言葉が聞きたい。その方言で語られる、当事者の絶望に耳を澄ましたい。そしてそれが希望に変わっていく過程に立ち会いたい。
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by kazeyashiki | 2012-04-30 09:00 | 世界 | Comments(0)

ヒゲを剃ること   

さいきん、電気ガミソリを使わずに、ヒゲ剃りを使っている。
気まぐれからだ。
剃り刃が交換できるヒゲ剃りがあって、
近所の薬局に行くと、替え刃が売られていた。
それで夜、風呂に入ったときにヒゲを剃る。
決して濃い方ではないが、一日でざらざらしてくる。
石鹸を泡立ててヒゲを剃るのは、なかなか気持ちいい。

海外へ撮影で出かけたとき、
その地の男たちはみんなヒゲをたくわえていた。
ヒゲがない者は変わり者、という文化がある国だったので、
おれも剃刀をあてることなく、そのまま生やしていた。
これが似合わない。
ヒゲの似合う顔、似合わない顔というのがたしかにあると思う。

剃刀でヒゲを剃るのは、ちょっとした”集中”であると思う。
新しい刃は、むかしみたいに肌を傷つけ、出血することはほとんどないけど、
顎や、頬や、鼻下に剃刀をあてるのは、真剣になる。
剃る快感も同時に感じているので、よけいに真剣になるのだろうか。
散髪屋みたいに完璧に剃れてないけど、
ゆっくりと時間をかけてヒゲを剃るのは楽しみになっている。
そして剃り終えてローションでたたくと、実に気持ちがいい。

一度、スキンヘッドの人と銭湯にでかけたとき、
剃刀で、鏡を見るでもなく、後頭部まで剃り上げていたのを見て感心した。
お見事!と言ってしまった。
馴れもあるのだろうけど、剃る快感を彼は感じているように思う。
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by kazeyashiki | 2012-04-23 07:00 | 暮らし | Comments(0)

ぜんぶ、自分のこと。   

知り合いのTさんのブログに、
「スマホ打ちながら歩くじゃねえ!」
という書き込みがあった。
駅の通路などで携帯メールを打ちながら歩いている人、たしかに多い。
Tさんは何度かスマホ・ウォーカーにぶつかったらしい。
「避けているつもりでも、急に立ち止まったりしてぶつかる」
おれも数回、そういう事態になった憶えがある。
一方向に流れている通路などでいきなり立ち止まるひと、います。
なにかを思い出す、思い返すということなんだろうけど、
後ろにいるひとは、当然驚くし、下手すればぶつかってしまう。
迷惑を越えて、危険だよね。

また、先日Mさんが言っていたこと、
「エスカレーターで携帯を持ってたらあきまへんで。
変な写真、撮るんやないかと勘違いされますねん」
それはMさんの挙動が不審だからでは……とは言えなかった。
名誉のために言っておくけど、Mさんの見た目はヘンじゃない。
紳士といってもいい。
だけどエスカレーターで携帯をいじっていると変な目で見られる。
なんだか生きづらい世の中であるなあ。

「世の中には自分にしか興味がない奴が仰山おります」
と言うのは、京都のHくんだ。
「とくに中高年。呆れるほど自分、自分、自分です」
彼がどういう人物のことを指して言っているのか分からないが、
そういうひとが世の中にいることは理解できる。
とりわけ中高年、おれと同世代かそれ以上の方々、
「おれ流・わたし流」で生きているひとが多い。
自分の興味対象外に対しては冷酷なほど無関心で、
「おれのこと・わたしのこと」には執拗なほど主張する。
そしてその執拗さがまたいいという価値観があるから始末に悪い。
「こだわり」は優れた面もあると同時に、鬱陶しさも含有している。

うーむ、これは自分自身のことでもあるな、と思う。

また池澤夏樹さんの本からの引用になるが、
ジョン・ダンという16世紀から17世紀にかけて詩を書いた
イングランド出身の詩人の言葉、
「人はみな孤島ではなく、大陸の一部だ。
 だから、葬儀の鐘の音を聞いて誰の葬儀の鐘かと聞いてはいけない。
 それは常にお前の葬儀のための鐘だから。」
という詩句が甦ってくる。
決して教訓として憶えているわけではなく、内省としてつぶやくのだ。
だがこれも「おれのこと」という「こだわり」なのかもしれない。
京都のHくんはおれのことを揶揄していたのかも。

物思う55歳である。

昨日の撮影で、某校のサッカーグランドに立った。
春霞の空の下、とても気持ちよかった。
ジャケット姿じゃなければ、寝転んでしまいたくなる。
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by kazeyashiki | 2012-04-10 12:00 | 世界 | Comments(0)

花祭り〜父の命日   

父が亡くなったのは、2004年4月10日のことだった。
前年おれは、ユネスコの仕事でアフガニスタンに行き、
カブールから一通、絵葉書を父宛に送った。

「ちゃんと届くかどうか分からない」
ユネスコ事務所の実直な男はそう言い、
ハガキで出すより封書にする方がいいと教えてくれた。
「ハガキだときちんと届ける必要がないと考える者がいるんです」
よく事情が分からなかったが、男の言うとおり封書にした。
たしか料金は日本円で400円ほどだった。
届くかどうか確実ではない手紙は、10日後に父の手元に届いた。
まだ元気だった父はそれを喜び、
「アフガンの熱砂あふるる便りかな」
という句を作った。
そしてその句はどこかの選に入り、額縁入りの短冊になって返ってきた。
2003年11月のことだった。

それから半年後、父は、ほぼ老衰のようにして亡くなった。
食道癌の放射線治療によって体力が失われた結果だった。
だから死因は呼吸不全ということになった。

亡くなったのは朝9時過ぎのことで、
前日から泊まり込んでいたおれは、最期の瞬間まで父の手を握っていた。
何度か強く握り返された。
そして口許を見つめていると、どういうわけか、
「あ、い、う、え、お」と発音しているように見えた。
何を言いたかったのだろう。
きっと「母のことを頼んだぞ」と言いたかったのだと想像するが、
もしかしたら別のことを伝えたかったのかもしれない。

呼吸が停止してからも、父の心臓は3分程度、動いていた。
それは計器の波形からの情報なのだが、
医師は、「丈夫な心臓なんです」と、その波形を見ながら言った。
「臓器移植をするとすれば、この瞬間に運び出すのですか?」
と尋ねると、七三分けに黒縁メガネの医師は「はい」と小声で応えた。
そして波形が一本の線になったとき、彼は死亡時間を告げ、看護師がメモした。
そうしてオヤジは死んだ。
ナースステーション横の緊急処置部屋の窓から桜の花々が見えた。
春爛漫、満開の桜の情景だった。
そして風に流された花びらが吹き飛んでいた。
「いい日に亡くなったな」
おれはそう言ったが、だれも何も言わなかった。

3日早い法事を昨日、豊中の母宅で開いた。
朝、おれは阿倍野の墓地へ墓参りに出かけた。
墓参は好きである。
できれば日常的なものにしたいが、なかなかそうもいかず、
1ヶ月に一度程度の割合で参っている。
先日の彼岸にどなたかが参られたのか、半分枯れた花が手向けてあった。
墓には父のほかに、祖父母や、幼児のときに亡くなった父の弟が収められている。
雑草を摘み取り、水を注ぎ、買った花を飾ってロウソクと線香を灯す。
いい匂いがする。
この墓に初めて来たのは、5歳くらいのときで、
そのときの写真が残っている。
若い頃はほとんど参らずにいたが、父の死以降、よく訪れるようになった。
隣近所の墓に眠る人たちの名前も覚えた。
この区画は昭和10年代に造られたようだ。
ちなみに上野家の墓は昭和14年建立と刻まれている。
祖父である潔が建てたもので、
その4年後に祖父は38歳という若さで亡くなった。
だからおれは祖父のことを知らないし、祖母も昭和23年に43歳で亡くなったので、
いずれも知らない。
だが、墓の前に立つとこの祖父母に話しかける。

父は79歳で亡くなった。
過去帳には、数え年で記載するので81歳となっている。
亡くなったのが4月だが、5月が誕生日なので2歳、年を数えたことになる。
「こんなに長生きするとは思っていなかったわ」
と、祖母の妹さんから言われた。
「上野家の男性は短命やったんよ」
そういうなかで、父だけが長寿だった。
もっとも、男性の平均寿命をすこし上回る程度ではあるが。
父の弟の毅は53歳、妹の千鶴子は65歳で亡くなっている。
79歳まで生きた父は、このなかでは長生きだったということなのだろう。

阿倍野の墓所を後にして、ちょっと仕事のために箕面へ出向く。
どうしても調べておきたかった件があり、阪急電車に揺られる。
そして用件はあっという間に終わり、
帰路、幼い頃よく買った精肉店でコロッケを5つ買う。
母への土産だ。
コロッケ屋の親爺は昔のまんま。老けたが面影が残っている。
その奥さん、昔はとてもよく太った方だったが、
今ではすっかり小さなおばあちゃんになられていて、車椅子に座って店におられた。
向こうはおれのことを憶えていないが、おれはよく憶えている。
コロッケを揚げる様子をじっと見ていたおれに、
「ほれ、一個」と、新聞紙に包んでくれたのを今も記憶している。
小学校で、「大人になったらコロッケ屋になる」と言ったら、
「ぼくも!」と2〜3人の生徒が同調した。みんなこのコロッケ屋が好きだったんだ。
先生も、どういえばいいか困っただろうな。

豊中の母宅では、妹と姪っ子たちとお好み焼きと焼きそばを作る。
義弟も仕事帰りに立ち寄り、仏壇に参ったあと、呑み会となる。
1リットルの箱ワインがみるみる減っていく。
勢いづいて、「カラオケに行こう!」と義弟がいう。
「えーっ、今から?」と妹が難色を示すが、母はまんざらでもない様子。
曽根にある、若者でにぎわうカラオケボックスへタクシーで向かう。
入口が地下にあるので、階段が苦手な母を背負って降りる。
「笹川良一やな」と自嘲気味に言ってみたが、耳の遠い母には聞こえない。

2時間、たっぷりと歌った。
「すみれの花咲く頃」や「知床旅情」「朧月夜」「花」「故郷」など、
なつかしのメロディばかり。
カラオケボックスのモニターに表示される字幕スーパーは大きいので、
視力の弱い母にも読めるのがよかった。
母はレモンサワーをきっちり1杯飲みました。

翌朝、午前10時に目を覚ました母は、なぜか鼻歌交じり。
よほどカラオケが愉しかったのか、「また行きたい」という。
昨晩は「もうこれでカラオケは最後」などと言っていたのに。

今日、4月8日はお釈迦様の生誕日、花祭りだ。
お釈迦さんが唱えた「無常」が日本の風土に馴染む、
と書いたのは池澤夏樹だったと思うが、
「無常」は決して悲観的な概念ではないと思う。
喜びや楽しみも無常の一側面ではないか。

そんなことを思った昨日今日である。
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by kazeyashiki | 2012-04-08 12:00 | 暮らし | Comments(0)

通夜の帰りの酒   

友人の父上が亡くなられ、通夜に参列した。
大正生まれ、日本の高度経済成長の一端を担って来た方だ。
奇遇にも我が亡父と同い年生まれで、
どのような時代を過ごして来られたか、微かに想像できる。
もっともこの想像に正確性はない。
だが、同じ戦前の空の下で青春を過ごし、
さまざまな形で戦争を体験し、
戦後の青空の下で生きていることを実感し、
それから仕事に明け暮れた……という部分は通底しているだろう。

友人の、通夜客への挨拶は秀逸だった。
彼は普段、さほどに感性用語を使ったり、情に訴えかけることがない。
そういう人物が語る亡き父への記憶。
それは一編の詩であった。
同行者と、しきりと感心したと話した。

通夜には仕事仲間も駆け付けて、
みんな同等に加齢していることを確認した上で別れた。
50年後には、ここにいる誰もがここにはいない。
そんな当たり前のことを思ったのは、
死というものがもたらす不安と安堵の入り交じりだろうか。
いや、この通夜に訪れた御室派真言宗の僧侶の話の影響かも知れない。
巨軀の、第一印象が見栄えしない僧であったが、
読経終わりの説法には、味わい深い親しみがあった。
友人家との積年の付き合いから、僧自身の檀家との交流、
さらに、僧の知己をすべて見送ってこその僧修行は、
生涯を掛けてもまだ足りぬ、という自戒。
いい話を聞いた。
それはこの友人の徳であると思った。
ふだんからこうした心が通う付き合いをしていることによって得る、
温かな関係がそこに如実に顕れていた。

式場を後にして、寒風吹きすさぶ弥生三月晦日の夜道を駅に向かった。
繁華街まで戻ってきて、酒を呑む。
精進落とし、とでもいうのだろうか。
燗酒がふさわしいところだが、国産のウィスキーに氷を入れたグラス。
おそらく幾人もの者たちがこうして同じように通夜の帰り、
一杯の酒を呑んで来し方行く末を考えたであろうそのことを、おれはやっている。
繰り返される人の生であろうか。
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by kazeyashiki | 2012-04-01 12:00 | 暮らし | Comments(0)