<   2012年 09月 ( 12 )   > この月の画像一覧   

もの想う初秋   

 中国の政府高官が国連で、「日本が島を盗んだ」などと発言するのは国際政治的にもあまりに稚拙だし、抽象的だし、非論理的だし、暴論だと、おれですら思う。「中国13億の民は怒っている」というけれど、チベット自治区の民衆はそうだろうか?あえておれも暴論をいうが、尖閣諸島と等価交換でチベット独立でどうだ?と言ってみたい。内政干渉というのなら、尖閣に対して中国は日本に内政干渉している。

 妄想だが、この先、時代が進めば「月は中国の領土だ」「火星もそうである」と言いかねない。それくらいのことをこの独裁国家の政府はチベットに対して行なってきたのではないか。

 文革以降、この国は孔子をはじめ、歴史の偉人たちを黙殺、いや、抹殺してきたのではないか。大学時代、中国仏教と道教の関係を勉強した者にとって、中国の思想哲学は輝けるものだった。その歴史をいまの中国はどう見ているのか?歴史の上を土足で踏みにじっていないか。そしてそれは、やがて民衆の抹殺につながって行く。

 中華の興隆がこの時代で頂点を迎えたように思う。それは独裁という旧弊な、封建政権が派閥争いによってようやく成立しているという脆さにあるからだろう。反日デモで暴れ回った民衆は、尖閣諸島がどこにあるかを知らない。同じように奪い取ろうとしているフィリピンやベトナムの島々についても分かっていない。

 日本はフィリピン、ベトナムと手を組んで、包囲網だけは作っておいてもいいのではないか。無力であるかもしれないが、形作っておくだけでいい。

 ☆

 酒井法子が芸能界に復帰するという。覚醒剤を使用したことは許されるべきことではない。過去、芸能人もヒロポンなどを使っていたではないか、という意見には同調できない。しかしおれは酒井法子が復帰して来ることに賛同する。芸能の民に甘いといわれても仕方がないが、彼女は青春時代からずっと芸能界で育った。常に「見られる立場」に身を置いて仕事をしてきた。そういう者から「見られる立場」を奪ってしまうことができるだろうか?

 芸とは、「映し」「移し」である。その芸人が経験してきたことが核となって他人を演じるものだ。つまり他人を「写し」取って成り立っている。そこには芸人個人のさまざまな経験や生きてきた法則が反映されている。その「反映する技術」が優れているかどうかが、うまい芸人、達者な芸人の骨頂である。

 酒井法子が覚醒剤によって罰を受け、芸能活動ができなくなったことは、社会的法律的にみて当然のことだ。だが、そうした経験をした彼女に「演じたい」という思いがあるのなら、おれは見てみたい。「ハクが付いた」という言い方でもいいが、こちらに見えてこない彼女の苦悩や不安や怖れが、演じることで反映されてくるのだとすれば、おれはぜひ見たいと思う。役者とはそうあるべきだと思っている。

 それに彼女には「花」があるしね。逮捕された後、人前に出てきたときのあの一種の潔さ、といえば反発があるかもしれないけど、おれは潔さの形を見た。卑屈でも高慢でもなく、見渡すように視線が動くあの姿勢、これが「花」だと感じた。その人物が「花」であるかないか、一瞬にして分かるものだと信じている。たとえ芸能人じゃなくてもね。

 花は、いじめてはいけません。
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by kazeyashiki | 2012-09-29 12:00 | 素描 | Comments(0)

母入院          

 母が週一度通っているデイサービスセンターから電話があり、やって来た母が「しんどい」と言って、センター内のベッドで休んでいるという。血圧が105-60くらいまで低下し、めまいを訴えたらしい。すぐにおれは動けなかったので、しばらく様子を見てもらい、午後1時まで仕事の妹にセンターへ向かってもらう。

 しばらくして妹から電話があり、かかりつけの病院に入院したという。医者は、「夏バテで食欲の減退による体力の消耗」といい、「ま、入院しときますか」という感じだったようだ。

 夕方、病院に行く。4人部屋の病室のベッドに母は寝ていて、点滴を受けている。もしかしたら意識がないのかと不安だったのだが、おれが行くとべらべらとよく喋る。うわごとではなく、正常なことばかり。しかし「もうあかん」「ここで死ぬ」「お迎えに来てもらう」といったマイナス志向全開のことばかり言う。

 ここ1週間くらい、母は食欲がなかった。1ヶ月に5キロの米を食していた母が、さいきんはお粥ばかり食べていた。夏バテであることは明確だ。だが、涼しくなればまた食べるようになると思っていたのだが……。

 母を見舞って、翌日も病院に行くことになったので、母宅に泊まった。赤ワインと出来合いの惣菜、フランスパン半分を買って独酌する。目が悪くなった母は、部屋が汚れていても気がつかなくなってきていて、よく見るとキッチンの床が汚れている。和室も仏間も風呂場もトイレも。一旦気になってしまうともやもやしてしまうので、深夜の大掃除をはじめてしまう。

 洋間の敷物などを洗濯機に放り込む。ゴミ箱下が相当汚れていたので、掃除機をかけ、雑巾がけをする。トイレを磨く。風呂場はまた今度にしよう。そんなこんなで気がつけば深夜1時過ぎ。ふたたびワインとチーズを飲みながら過ごし、気がつけば寝てしまっていた。

 7時に起きて、ふたたび掃除。洗濯機もフル回転だ。そして病院に向かい、見舞う。朝食、昼食ともすこししか食べなかった。「食べなければ体力が回復しないよ」と、レポート用紙に大書する。耳が遠いので筆談しかできないのだ。しかし母は言いたいことを言う。またもやマイナス言葉。ふんふんと聞き流すしかない。92歳である。いつ何があってもおかしくはない。楽しみもだんだん少なくなってきている感じがする。食べること、デイサービスで友だちに会うこと、思い出話をすること、これらもさいきんは少なくなってきている。

 しかしおれは母に伝える。「百まで生きましょう!」と。
 母は「いやいや」と手を交差させるのであるが。
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by kazeyashiki | 2012-09-27 16:00 | 暮らし | Comments(0)

一言居士   

 ぷよねこS氏が「なんとか居士」というタイトルをつけて日記を書いている。いわく、三食居士、慎重居士、秋待居士、銀輪居士……クセになるらしい。自分をいい表すのに居士はなかなか便利である。三食や慎重だけでは何のこっちゃ分からない。

 居士といえば「一言居士」を思いだすのが一般的だが、もうひとつおれが思い出すのが「果心居士」。司馬遼太郎に「果心居士の幻術」という短編があり、幻術使い、奇術師みたいな存在なそうな。信長や秀吉、明智光秀の前で幻術を披露したというが、実在したのかどうか怪しいようだ。小松左京の名作、『果てしなき流れの果てに』にもこの居士が登場した。

 居士は戒名にも付けられているが(女性の場合は大姉)、これまでおれは、墓所で「居士」と刻印された墓を見たことがない。なぜなのかと考えてみたら、居士は江戸期の武士に付けられるものだそうで、武士が少なかった大坂の墓所にはあまり存在しないようだ。大坂には江戸期2〜300名程度しか武士がおらず、それは現在も名が残る同心町や与力町にいたということだが、近辺の者ならともかく、大坂の町人商人のなかには一生、武士を見たことがない人もいたらしい。天満橋や天神橋は公儀橋で、基本的に武士しか使えないことになっていたが、大坂の場合はこれに倣わず、天神橋は多くの町人商人たちが利用したことは、江戸時代の大坂を舞台にした小説などに書かれている。高田郁さんの『銀二貫』が有名だし、司馬遼の『俄』の明石屋万吉もこの橋を渡った。

 居士には仏教に帰依した在野人の意味もあるが、仏教に関係なく、官職につかずに学識がある者のことを指した。千利休などがその代表だという。居士は別に処士とも呼ばれ、学があるので幕府からは重宝がられることもあったが、うるさがられることもあった。松平定信がおこなった寛政の改革に「処士横断の禁」という項があり、幕府を批判する者を罰したのだが、この対象が処士、つまり居士である。享保の改革、天保の改革と列ぶ寛政の改革は、田沼意次の重商主義による経済の混乱を改める目的であったが、庶民への強烈な倹約をはじめ、思想的弾圧も並行したので国力は低下し、国益が損なわれたと現在では評価されている。

 この寛政の改革について調べたのは、池波正太郎の『鬼平犯科帳』に関する仕事をしていたためで、この改革の際に「人足寄場」が江戸石川島(現在の佃)に造られた。これを提案したのが長谷川宣以、つまり火付盗賊改方長官である長谷川平蔵、鬼の平蔵であった。鬼平は実在の人物をモデルにしているのである。この「人足寄場」の建設は、当時の封建社会においては画期的ともいえる人道的な発想であると思う。ここは無宿人の職業訓練所であり、自立支援の場でもあった。こうした発想の背景には、火付盗賊改の仕事をするなか、罪を犯す者が故郷を棄てた無宿人であり、罪を犯さなければ生きていけなかったという現実をイヤと言うほど見てきた長谷川平蔵の視点があったからだろう。「人間はよいことをしながら悪いことをし、悪いことをしながらよいことをする。」と池波正太郎は書いている。無宿人がかならずしも生まれついての悪人ではないという性善説に立っている。そのために「人足寄場」が造られたのである。そしてそれは着実に機能し、治安維持に役立ったという。

 無宿人については、司馬遼太郎の『街道をゆく・佐渡のみち』の「無宿人の道」に詳しく書かれている。江戸で無宿人狩りがおこなわれ、佐渡へ連れて来られて金山の坑道に人夫として放り込まれた。彼らはすべてが罪人というわけではなく、無宿人というだけの理由で連行されて来た者たちだ。無宿人とは戸籍のない者で、人別帳に名のない者のことである。なぜ名がないのかといえば、江戸時代の刑罰は連帯責任制であり、出来の悪い息子などが犯罪をおかした場合、その一家が罰せられることになる。したがって不良少年たちは親族兄弟から縁を切られる。人別帳から名を抜いてしまうのである。これが無宿人であり、彼らは浮浪して、大都会・江戸の本所深川あたりに集まって来た。これを幕府が「狩る」のである。佐渡に連れて来られた無宿人は、ずっと鳥かごのような唐丸籠に押し込まれていて、佐渡島の中山峠まで来ると歓迎(?)の甘酒が振る舞われたというが、これはこの世の見納め、お慈悲であったそうな。金山に到着して親方が籠を大鉈で断ち切ると、無宿人が転がり出てくる。気を失う者もいたようで、地獄へやって来たと慟哭する者が多かったという。

 上州無宿といえば、木枯し紋次郎も無宿人だった。

 ともかく寛政の改革では、「人足寄場」の建設というよい面もあった。だが一方で思想弾圧、「処士横断の禁」といった無茶な令も発せられている。これも「よいこと悪いこと同時発動人間」の所以といえば所以か。

 ぷよねこS氏の日記からこんなことを思った次第。これはどうみても「一言居士」であるな、おれは。
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by kazeyashiki | 2012-09-23 15:00 | 世界 | Comments(0)

京から薩摩へ   

 このところ、京都での仕事が多い。地元局の番組構成を担当するということもあって、京都通いが増えてきている。天満橋から出町柳まで京阪で行くこともあれば、阪急で梅田から烏丸へ行くこともある。出町柳からは市バス、烏丸からは地下鉄で移動する。時間があるときは、歩いていく。

 取材やロケハンは上京、左京が多く、繁華街である祇園や四条通り周辺には立ち寄ることがない。人の多いこのあたりで動き回るより、西陣の静かな路次を巡ったり、高野川あたりを歩くのが楽しい。ときには北区の紫野や紫竹、上賀茂あたりにも足を伸ばす。祇園や宮川町、先斗町とはまた違う京都の顔がある。

 昨日は北野天満宮から上七軒界隈をロケハンした。男ばかり5人、ディレクターやカメラマン諸氏と一緒である。以前、西陣署と呼ばれていた警察署は上京署になっていて、その前から天神さんの鳥居、東に広がる花街を見渡す。さほどいい風景ではないけれど。
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 北野天満宮は菅原道真公ゆかりの学問の神様が祀られていて、受験前には多くの生徒たちが願掛けに鳥居をくぐる。道真公の生誕・命日が25日ということから、毎月この日には天神市という骨董市が開かれ、たいへん賑わう。

 学生時代、この市に出店する人から雇われて、一年くらい店番として路上に商品を広げて座っていたことがある。モノは衣服で、麻で作ったシャツや、楽なパンツ、ショールなど。男性用も女性用もあって、その手作り感が受けて、結構売れた。作っていたのは先輩の女性で、幼い子供を抱えたシングルマザー。一日座っていると、実にいろいろ出会いがあった。商売熱心ではないから、商品を進めたりはしない。客が気に入れば売るだけだが、芝居公演を控えている時期だけは、チラシを渡して「よろしくお願いしまーす!」などと愛想よく振る舞った。一日で数点の商品が売れ、少ないときで3万円、多いときは7〜8万円の売上げになった。バイト代は5000円。いい仕事だった。昼になると、となりで、こちらと同じように地面に敷物を敷いて、壺などの骨董品を売っている女性に声を掛け、市に出ている屋台のお好み焼きやたこ焼きを買いに行く。そして出ている店を覗きながら戻ってくる。骨董市だから美術品や雑貨、古着などが多く、おれは「たばこ盆」を買ったことがある。300円くらいだった。となりの店は李朝時代の小さな白磁壺や楽焼き茶碗などを販売していて、1つ1万円から3万円。売っている女性はおれより少し年上で、子鹿のように細く、ストレートの長い髪が魅力的だった。だがすでに結婚していて、夕方、市が終わると大型バイクに乗った旦那が迎えに来た。考えてみれば、李朝の壺や楽焼がその値段であったなら、無理をしてでも買っておけばよかったか。真贋の程はともかく、彼女は「本物です」と確信に満ちた目で客に言っていたからそれを信じたいな。

 ロケハンが終わり、大阪へ戻る。四条河原町まで歩き、阪急に乗る。しかし阪急電車は満員である。前の駅から乗ってきて、河原町で降りない乗客、おもに学生がとても多く、出発駅なのに車輌シート半分以上が埋まっている。京阪電車のように、一度すべての乗客を降ろしてから乗車させるやり方を採用するべきだ。結局座れずに梅田まで。となりの女子学生が背負う大きく膨らんだザックが座席に座る別の女子学生の頭部を圧迫していて、「混んでいるんやからザックは足許に置いてよ」と言われても、無反応。みればイヤホンをして携帯モニターに夢中になっている。仕方ないから肩を軽く叩いて気づかせ、ザックが乗客に当たっていることを報せると、無造作にザックを両腕から外し自分の足許に置く。ずっと無言。ふつうは「あ、すみません」とか言うんではないか。

 しんどい阪急に揺られ、ようやく梅田駅に到着し、朽見氏と中西氏が待つ薩摩料理の店に向かう。東通り商店街にある店で、これまで何度か出かけたことがあった。というのも朽見氏は大阪出身だが大学が鹿児島だったので、薩摩の料理や芋焼酎が時折無性に食べたくなることがあるようなのだ。それまで本格的な薩摩料理を知らなかったおれたちは、いろいろ教えを乞うために暖簾をくぐった。そして幾度か通い、黒豚、地鶏、薩摩揚げ、カツオやきびなごといった薩摩を代表するものに舌鼓を打ってきたのであるが、なかでもこの店で、「黒千代香(くろじょか)」で飲む芋焼酎が最高だということを〈知ってしまった〉のである。黒千代香とは、器の名前でいわば土瓶である。そこに芋焼酎を入れるのだが、焼酎5:水5をあらかじめ割っておき、一昼夜置いてから、それを温めてこの黒千代香に入れて、飲む。これがうまいのなんのって!焼酎の味がここまで豊潤であることに気づかされる。いくらでも飲めそうな感じがするのだが、気がつけばかなり酔っている。
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 そして酔いが回らぬうちにと、アフターアワーズに向かう。9月28日で一旦店を閉め、神山の元レインドッグス近くに新装開店する。西天満から神山へ移ると、それなりに客も増えるのではないかと思うし、新たな客だって来るだろう。店では中西節絶好調で、おもに高倉健さん話で盛り上がり、10時過ぎには散会。この日はすべて朽見氏に奢ってもらった。どうもご馳走様でした。
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by kazeyashiki | 2012-09-22 12:00 | 京都 | Comments(0)

好奇心   

このところ積年の放漫さのツケがまわって来ていて収入がすくない。
某社と契約しているので、ひとまずは安定的なので有り難いのだが、
それでもこれまでに積もり積もったものが、万遍なく押し寄せて来る。
まったく不徳の致すところである(この言い方、初めて使った)。
こうした事態を観察していると、相当いまの立ち位置、軸足が危うい。
その結果、どういうことになるのか、自省を込めて書き出してみよう。

◇飲み屋に行くことが少なくなる。
◇旅、小旅行に出かけなくなる。
◇本を買わなくなり、書店に長居しなくなる。
◇食い意地が張るのか太ってしまう。
◇発想が貧困になるのを感じる。
◇性格が歪んでしまっているという感覚になる。

ざっと挙げるとこういうことで、いずれも「よくない」ことだ。
だがそれも身から出た錆、自業自得であることは言うまでもない。
ひとつずつ分析してみよう。

◇飲み屋
仕事や打合せが終わって一杯……というのは愉楽のひとつであり、
ストレス解消であるが、その余裕がなくなって来る。
すると酒の量は圧倒的に減る。それはそれでいいのかもしれない。
しかし飲み屋から遠ざかるのはさみしいことである。
今月9月は2回、居酒屋に行った。
酒自体は母宅や自宅で飲んだが、
18日の今日まで5回飲酒に留まっている。
これもいい面なのかもしれないが、やはりせつないものだ。
なじみの店のマスターと話が出来ないしね。

◇旅行
ちょっと海を見に行く、といった気まぐれ旅ができなくなる。
休みの日などにどこか出かけたくなることが多いのだが、
やはり旅費や雑費などいろいろ掛かるので、ためらってしまう。
旅はおれの場合、息抜きであり楽しみなので、これは結構ツライ。
温泉や寺社旧跡めぐりができない状況は、どうも不健康であるなあ。

◇本と書店
書店を覗くことは自分の長年の習慣であった。
買わなくても本の顔を見に行くということを繰り返してきた。
しかし本を買うことが少なくなると、書店内をめぐることが減ってきた。
いい本、読みたい本があるのは分かっているので、
買えない現実の前に逃げ出してしまう、という行動になってしまう。
立ち読みはするんだけど、やはり買えないことはプレッシャーになる。
よって、書店に長居しなくなってしまった。
その代わり、図書館は大いに利用することになる。
したがって、これはいい面があるといえる。負け惜しみじゃなくてね。

◇食い意地が張る
居酒屋に行かなくなると、家に帰る時間が早くなる。
きちんと家でメシを喰う。それはいい。
だが、昼食もできれば弁当にしたい。
ところが弁当を作るには手間がかかる。
握り飯2つくらいが関の山なので、安いカップラーメンを食べてしまう。
安売りで88円で売っていたりなんかする。
それが昼食になると、カロリーオーバーになる。
だったら握り飯2つだけで済ませばいいと思うのだが、ちょっと少ない。
食べておかねば!という焦燥感みたいなものが出てくるのだ。
貧乏性なのである。
カップラーメンや焼きそばは本当に太る。
3日くらい続けたことがあって、見事に体重が増えた。
貧困層がぶくぶく太っている、という現実をおれたちは知っている。
まさにそれが自分の身に降りかかって来ているということなんだな。
いまは節制して、ようやく80キロ前後の通常体重に戻ったが、
これからも気をつけなければいけない。

◇発想の貧困
使える金が少ないと弱気になるという欠点がおれにはある。
自信喪失し、発想に柔軟性がなくなり、貧弱なことばかり考える。
それではいい仕事、いい企画、いい台本が書けないじゃないか!
という心配はとっくの前に自覚している。
それでも何とか仕事を進めていられるのは、周囲の人達の助けのおかげ、
With a Little Help from My Friendsである。
書いたものを添削し、修正し、方向性を与えてくれる者たちがいる。
これではおれは無能者、お荷物ではないか!と思う。
そうならないためには、居酒屋に行かないので時間がある点を活用し、
図書館で本を借り、映画を見て、音楽を聴き、
招待券で美術館や博物館に通う、ということを繰り返す。
そうすれば何かを得られる、というのは幻想だけど、
感受性を磨くことにすこしは役立っているのではないか。
友人から「お前はもう死んでいる」と言われたときがオシマイである。

◇歪んだ性格
妬んだり、スネたり、暴言を吐いたりすることはないと思っているが、
それは表面的なことだけで、内面ではかなり性格の歪みを自覚している。
かなり深刻な問題だ。
おもてヅラがいいのは仕方がないが、内面がドロドロなのはイヤだなあ。
これが格差社会なのかな、と考えたりするが、
そうした分析も、もうだんだんどうでもよくなってくる。
判断停止ではないか!
と思い返すのだが、社会のことを考えるのが邪魔くさくなってしまう。
これはやはり深刻な事態ではあるな。

〈結論〉
ずばり、「好奇心がなくなりつつある」というのが実感である。
これは由々しき事態であるぞ。
好奇心で生きてきた人間がこれを失いつつあるということは、
老化現象なんて悠長なことではなく、生命力が薄れていくことではないか?
社会の出来事、事象、現象に好奇心で接し、近づくこと、
そして自分の軸足はぶれたりしながらも、何とかそこに入っていた、
という感触でやってきたのだが、好奇心が薄まるとそれが瓦解しちゃう。

ということで、結論から導き出されたものは、
「ここに書いたことをしっかり自覚すること」であると同時に、
「ちゃんと稼ぐ」ということであるな。
自分がやりたいことをやるためには、何よりも好奇心を育てること。
まるで中学生のような決意、と言ってしまうと元も子もないが、
そういう状態にキミはいるんだよ、と言い聞かせよう。
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by kazeyashiki | 2012-09-18 23:00 | 暮らし | Comments(0)

街暮らしのストレス   

地下鉄のガラス窓に正方形の広告シールが貼り付けられている。
そのなかの1枚。

「みんなの憧れの女子社員、『会釈』を『かいしゃく』と読んだ。
ちょっと、熱が冷めた。」

漢字能力協会かどこかの宣伝のようだ。

このコピーに、同感する者も多いだろう。
たしかに他人の読み間違いは、横にいるとツライ。
その人との関係において、
「それは、エシャクと読むんだよ」と言える距離もあれば、
会釈という言葉をこちらが(訂正する意味を込めて)もう一度言う、
という対策もある。
まったく訂正もせずにそのままスルーさせてしまうケースもあり、
実にさまざまなシチュエーションをおれ自身、経験してきた。
もちろん、逆のケースつまり自分が間違えたこともあった。

だが、思うのだが、
上記の広告コピーは、どこか薄情な気がする。
それは「ちょっと、熱が冷めた。」という一文があるからだろうか。
そういうことを言う必要があるかな、と思う。
言わなくていい。
いや、言わなければ(書かなければ)〈宣伝〉にならないのだろう。
しかし、違和感を抱いてしまう。

熱が冷めようが冷めまいが、知ったことではない、
と、おれは感じてしまう。

個人的には、
「会釈を〈かいしゃく〉と読む女子社員」が好きである。
読み間違いをするくらいの子がいい。

ま、これもイヤラシイといえばイヤラシイのかもしれないが。

漢字に関してもうひとつ。

地下鉄の駅やショッピングモールなどのフロアに標識が書かれている。
こういうものが出はじめた当初は、デザインや絵柄だった気がするが、
さいきんは文字が書かれ、しかもぎっしり詰まっていることが多い。
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だが、漢字好き、文字には魂が宿っていると思っている者にはツライ。
踏めないですよ。
御堂筋の「御」を踏むなんてことはできません。
どの漢字にだって魂、言霊があるのだから靴で踏むなんてマネできない。
なぜこうした床標識、地面文字が登場するようになったのか。
その背景には、文字に対する敬意がなくなって来たからなのか?
なんてことを考えてしまう。

「踏み絵」の世界ですね。

おそらく目の高さに案内板などを吊す空間がなく、
しかし標識を出したいと考えていた人が、
床面に目を付けたのかもしれないが、その発想は頂けないなあ。
どこかのプランナーが考えて鉄道会社や商店組合に提案したのかも。
「いや、まだ標識や広告が出せる面があったんですよ」
「ほう、どこかね?」
「床面、フロアですよ」
なんて得意げにプレゼンしたのかもしれない。
……いやだねえ。

石垣島に住む金ちゃんが、
「都会は俯いて歩く人が多いのかな」
と書いていたが、なるほどそれはなかなかいい捉え方だ。
〈俯く〉は、先日書いた「う」の言葉で、
上から下へ動いていく意、沈んでいく感覚である。
俯いている人は元気を失っている人なのかもしれない。
都会にはそうした人が多いのだろうか。

いずれにしても、街暮らしはストレスがたまりますね。
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by kazeyashiki | 2012-09-17 09:00 | 暮らし | Comments(0)

日日の妄言   

中国の大都市で、日本の尖閣諸島国有化にフンガイしたデモがおこなわれている、
と、ニュースが告げている。中国政府もかなり強烈に抗議声明を出しているし、
温家宝首相も「半歩たりとも譲らない」と指を立てて述べたという。
広い領土を持つ国なのに、やはり海、そして海底資源への欲望なんだろうなあ。
もともと中国の民は、海などに興味を持っていなかったんだ、百年くらい前まで。
北京や上海では「海」といえば、ウイグルなどの僻地のことを指す言葉だった。
それほど漢民族にとって「海」は普段から縁のない存在だった。
だけど人口増加と経済優先主義で、食糧確保と海底資源の利権が必要になってきた。
それにしてもデモに参加している人達は、高カロリーのものを食べている体型だなあ。
だから魚を食べたいと思っているのだろうか。
手に入れた魚も、フライや天ぷらにして食べてはいけません。

領土の問題はこじれることを前提にしなければいけない問題だと思う。
尖閣諸島に中国がこれまで何をしてきたのか、報道から聞こえて来ない。
作為的に日本のメディアがそうしているのかもしれないけど。

しかし領土問題は戦争の引き金になることは、
1982年のアルゼンチンVSイギリスのフォークランド紛争で周知のことだ。
紛争というより戦争であり、マルビナス戦争とも呼ばれている。
アルゼンチンでは政府が焚きつけて義勇軍まで組織されたのだから、
島の領有というのは国民の愛国心を刺激する。
権力側も国民のさまざまな不満の矛先を転化させるには絶好の産物なのである。
中国国内では日本人が嫌がらせをされているという報道もあるが、
これは諸刃の剣で、「じゃ、日本国内にいる中国人を殴ってやろう」
という者が出現してくる可能性の道を指し示していることにもつながる。
解決法?なかなか難しいと思う。ノーアイディア。
「この島は歴史的に日本国の領有でした」と言い続けるしかないと思う。



iPhone5がまもなく発売されるという。
おれのは4だから、来年6月になったら5に乗り移ることができるのだが、
モニターが大きくなった点や、新しい機能搭載というのにはあまり惹かれないなあ。
家人がiPhone関係の窓口に勤めている関係で問い合わせが多いらしいが、
相変わらずiPhone及びアップル製品に関して質問してくるヒトタチというのは、
理屈っぽくて、上から目線で、オタクっぽいらしい。
「こんなことも知らないのか!」と電話口で呆れ返るという。
家人を含め、スタッフ一同この種のヒトタチがキライというか気持ち悪がっている。
彼らの感じを書き出してみると、こうなる。
〈過剰意味づけ、うるさい、自分の主張を押しつける、せっかち、リーダーシップなし、
 責任をとらない、被害者意識ばかり……〉
実は、これは先日読んだ『団塊の世代とは何だったのか?』(洋泉社)の
ブックレビューに書かれた団塊の世代に対するイメージである。
おれの周りの団塊オヤジたちはこうしたところがないように思えるのだが、
会社における団塊オヤジたちは、こんな風だったのだろうか。
しかし今やもう彼らも定年退職して菜園を作ったり、山登りしたり、
ソバを打ったりしているのだろう。
しかしiPhoneやApple関係でうるさく言ってくるヒトタチは団塊の世代ではない。
30代40代の男性だという。
つまり団塊世代のDNAがしっかり受け継がれている、ちゅうことか?!



9月12日に阪神タイガースの金本が今季限りでの引退を声明した。
おれは5〜6年前に北新地の店でこの人を見たことがあった。
かなり酔っ払っていたようで、大きな声で喋っていた。
阪神ファンでもないし、プロ野球についても詳しくないのだが、
金本選手は、昭和の匂いのする野球選手だと思う。



今週はシナリオや日程表などの書き物がやたらと多く、気ぜわしく過ごした。
明日から世間は三連休だ。みんなが休んでいる間に仕事しよう。
そういうスケジュールを組む習慣がいつのまにかついてしまった。



これを書き終えたいま、大阪ミナミは豪雨である。
落雷で、事務所の電源が一瞬落ちた。
編集室から叫び声が聞こえてきた。
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by kazeyashiki | 2012-09-14 12:00 | 暮らし | Comments(0)

いい言葉   

さいきん聞いた、印象に残った言葉から。



「気持ちは映らないっていうけど、でもやっぱり映るんですよ。どこかでそういうのがあるんだよ。」

 高倉健さんの言葉だ。先日、N氏と平野町の「遊亀」に飲みに行ったとき、N氏がしきりと、前の晩に放送された高倉健さんの番組のことを語る。9月8日と10日の2夜にわたり高倉健スペシャル番組が放送されたようで、N氏は8日放送分のことを言っているのだった。「お袋も見ていたんやけど、だいたいお袋は健さんのような役者は好きやない。でも、見終わってから〈なかなかカッコイイなあ〉って言うんや」N氏は日本酒の酔いもあって、高倉健へのオマージュを熱く語る。北野武は健さんを評して、「日本人がいちばん好きな孤独感を体現している。」と言ったそうだし、N氏によれば武さんは「健さんはシロナガスクジラだ」と喩えたとか。なんとなく分かるようで分からないのだが、NHKでは14日に再放送するみたいだから、チェックしよう。

 気持ちが映る……というのは、なかなかいい表現だと思う。言うべき人が言って映えてくる言葉だ。映るは、移るであり、遷る(動かす)にもつながる気がする。「うつる」の「うつ」という言葉の語源はどこにあるか。ネットや白川静さんの本で調べてみた。

 「うつ」は「鬱」という言葉が連想しやすい。「打つ」もあるかもしれない。「う」というのは、上から下へ沈んでいく様子を表現するらしい。「杵をうつ」という振り下ろす動きや、「手を打つ」ことで出来事を収束させる。つまり事態を落ち着かせる。「う」とは、ひとつの終わり、終焉を言い表す言葉だという。「うっ」と、息が詰まるときの声でもある。また「つ」も、「着く」「突く」「就く」と、ひとつの結果を表す。なので「う+つ」には、「終わること」の二重の意味が含まれている。だが、物事が終わっても人は生きていく。また始めなければならない。そこで「移る」「映る」「遷る」は、「終わりからのはじまり」を意味するらしい。

 また「うつ」が含まれる言葉に「美しい」がある。「うつくしい」は、みずからがそれを失った(終わった)ものを評して使う言葉で、子供の無邪気な様や、活き活きとした様子をみて、「美しい」という。元来「うつくしい」は、弱者に対して使った言葉であったそうだ。つまり、失ったもの、終わったことが「う+つ」にはあると解釈してもいい。

 「気持ちが映る」という健さんの言葉は、ひとりの俳優が架空の人物を演じながらも、そこに俳優が得てきたさまざまな人生の経験や記憶が色濃く反映されていて、そこから導き出されてくる結晶が「気持ち」なのかもしれない。俳優は演じる前に、「その気持ちになる」という営為を積み重ねている。それは実に困難で、苦しい作業であるかもしれない。しかし演じたことによって映像に撮され、残されていく。おれたちはその映画を見て、健さんの「気持ち」を知る。結晶を見る。映画館から出てきたら健さんになっているかのようになる……というのは正しい姿かもしれない。「移って」しまったのだから。

そんなふうに思った。



つぎの言葉。

「感性は持って生まれたものだけど、感受性は後で身につけられるもの。決して才能には恵まれなくても、感受性がいい選手は伸びるというのが僕の実感です。」

 これは、小谷正勝氏の言葉である。昨年まで巨人の二軍投手コーチをしていた人物で、現役時代は大洋のリリーフとして活躍した。そして上記の言葉は、DeNAの三浦大輔を評して言った言葉である。プロ野球のことは詳しくないが、小谷氏のこの言葉は指導者、教育者としての氏の感覚の良さが表れている。こうした考えの人のもとで育てられた者はきっと伸びると思う。ちなみに小谷氏は現在巨人で活躍している山口鉄也を見出した人でもある。

 感受性は後天的なもの、ということなのだが、後天的というより、後得的なものという気がする。もとより自分の才能のなさに気づいて長いおれだが、こうした言葉を聞くと長い間なにもせずにサボって来ているなと思う。なにをサボっているのか、目的語は多種多様ある。三浦のような野球選手なら肉体的な鍛錬の部分が多いのだろうが、しかし肉体だけを鍛え上げることで感受性は身につくかといえば、そうではないと思う。多くの本を読んだからといって、いい書き物ができるとは限らない。知識ばかり振り回し、人格的に安物くさい奴になってしまうこともある。そういう人物を知っている。おれだ。知っているというのは構わないが、知っているだけではダメ。応用が必要なのだ。だがそれができないと結局それだけの雑学知識ボックスになってしまう。しかも妙な功名心やプライドや顕示欲が横滑りしてきて、ウソや妄言が入り交じり、最終的に論理的破綻に向かい、信頼を失う。自分がたどって来た道だからこれは自信を持っていえることなのだ(自慢するな!)。



 ということで、今日はここまで。

 
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by kazeyashiki | 2012-09-13 12:00 | 素描 | Comments(0)

とらうま考   

友人のI氏がF.Bで自分のトラウマについて、「傷痍軍人」「虚無僧」「消毒車」を挙げていた。トラウマは心的外傷を意味する臨床心理及び精神心理学用語だが、ここではそうした学術的な解釈ではなく、むしろ「個人にとって心理的にショックを与え、その影響が残るような体験」といった意味合いである。

昭和30年代から40年代にかけて、町に傷痍軍人さんが多くいたと記憶している。おれは親父に連れて行かれた天王寺界隈、難波などでその姿を幾度も見た。白装束でアコーデオンを弾く容姿はそれだけで異形であり、子供のおれには一種の恐怖感を与えた。傷痍軍人という存在はなかなか難しい存在であるという。戦争で傷を負い、仕事が出来ずに喜捨のために街角に立つ。「おめおめと帰って来やがったら、乞食か」などと謗られたりしたらしい。この「おめおめと」という表現は手厳しい。語源的には、『保元物語』や『平家物語』にもこの表現が見られるという。意味は「恥と分かっていながら平然としている様」である。わが父は傷痍軍人さんに同情的だった。その影響か、おれも「さんづけ」で書いてしまう。「戦争のために頑張って、ケガをしはった人たちや。働かれへんのは辛いやろなあ」。親父自身も復員後、結核を患って和泉砂川の病院に長くいて、就職できずにバイトをしたりして糧を得、ようやく20代後半になって、コネで信用金庫に就職できたという経緯があったから、働けないことに対する思いが深かったのだろう。

虚無僧に関しては、生まれた土地が西国三十三ヶ所めぐりの巡礼地であったことから、幼い頃によく見かけた。虚無僧、山伏、六部といった、これまた異形の民である。彼らは数人で黙々と通り過ぎて行った。ちんどん屋さんなら嬉々として後を追いかけたが、虚無僧たちの場合は、通りの向こう側からやって来るのを見つけると、すばやく物陰に身を隠した。怖かったのだ。とりわけ虚無僧は顔が見えない。いきなり掴みかかられたら……という危機感を抱いたりした。また、六部といえば「六部殺し」という民話・怪談がある。旅の六部僧をある農家が泊めてやる。僧の懐中に路銀があるのを見た農家の主が僧を殺し、それを奪う。しばらくして農家の夫婦に子供が産まれるが、成長しても口がきけない。ある晩、その子が小便をしたがって厠に連れて行く。月のない夜か、雨降る晩のことだ。するといきなり子供が主にこう言う。「お前に殺されたのもこんな晩だったな」……この手の話は各地にあるようで、おれも中学生の頃に聞いた。そして後年、劇団で「神無月奇談」という芝居のなかに挿話として盛り込んだことがあった。

消毒車というのをおれが知らなかった。I氏によれば、「消毒車は、リヤカーに消毒機を乗せて玄関から白煙を撒き散らす。来るときは食べ物をタンスに入れて、十姉妹のカゴを持って家族全員避難しました・・・。」ということだ。これはI氏が暮らす都心部の話ではないだろうか。おれがいたところは農家の多い田舎地だったので、消毒する必要などなかったのかもしれない。あるいは消毒してしまうと、野菜などの作物によくなかったのか。箕面桜の家の便所は汲み取り式で、水道はまだ敷設されていなくて、手漕ぎ式の井戸が水源だった。便所と井戸端は離れていたが、どこまで衛生的だったのかは分からない。

便所といえば、おれたち家族が借りていた家は大きな屋敷で、そこを木賃宿風にして幾組の家族が賃借していた。憶えているだけでも、上野家、橋本家(祖父母と母の妹一家)、宇田川家、前田家、長谷川家、崎田家、保坂家と、都合7家族が襖やガラス戸で仕切られた家に居住していた。上野家の間取りは四畳半と三畳間だけで、そこに家族4人が起居していた。炊事は二間を繋ぐ板の間で、水場はなく、石油コンロで母は飯を炊き、料理をしていた。

この屋敷は元々、某警察署長の持ち家で、この署長さんは警察の仕事以外に大阪市内で旅館を経営するという商才に長けた人で、今なら公務員法違反なのかもしれないが、とにかく資産家だった。その署長さんの経理面を、銀行員だった祖父が見ていた関係でこの家を借りたということなのだが、この署長さんは面倒見がいい人だったのだろう、祖父に「すまんが、○○一家が路頭に迷っておる。広い家やからどこか一角に住まわせてやってくれんか」とでも言ったのであろう。気がつけば7家族が暮らす大所帯の家になっていた。もっとも各家庭は別々に食事を作り、勝手に生きていた。

そういう家だったので、便所が2つあった。西側の白便所と、東側の青便所とおれたちは呼んでいた。白便所を使うのは祖父母の橋本家と上野家だけで、他の家族は青便所を使う。なぜ白、青なのかといえば、それは便器の色によるもので、正確には青ではなく緑色の便器で、模様が施されていた。応接間の横に作られた来客専用の便所であったため、高級感を持たせたのだろうか。男子用の立ち便器も、大きな方用の座り便器も異国風であった。おれはめったに青便所を使わなかったが、夜中にどうしても小便に行きたくなると、寝間に近い青便所に行った。多くの人が使う青便所には、前の使用者が残していった新聞や雑誌が置かれていて、天井からはハエ取り紙がぶら下がっていた。ある夜この青便所に行き木戸を開けると、大きな男が倒れ込んでいたのでびっくりして飛び上がった。酔っ払いだったらしいが、おれは階段を駆け上って逃げ帰った。

さて、おれにとってトラウマとなる風景との出会いは、やはりなんと言っても旅役者の一群との遭遇であろう。以前にも書いたが、ある夕方、おれは同じ家に間借りしている年下の友と一緒に風呂屋に出かけた。しかしいつも行く豊桜湯が休みで、ボーっと突っ立っていると、風呂屋の横のパン屋のおばちゃんが「今日は休みやで。風呂入るんやったら、もう一軒のほうに行き」と言った。歩いて10分くらいのところに風呂屋があることは知っていたが、行ったことがなかった。好奇心も手伝って、おれたちは走って向かった。

「ゆ」と大書された暖簾の前にベンチがあり、そこに数人の男たちがたむろしていた。浴衣姿で、罐ビールなんかを飲み、たばこを喫いながらへらへらと喋っている。そしておれたちがおずおずとしながら暖簾をくぐろうとしたとき、一人の男が何か言った。それはたぶん「おちんちんの毛は生えたか?」みたいなことだろう。周囲の男たちが笑った。おれたちは無視して下駄箱につっかけを入れた。すると女湯の引き戸が開いて、何人かの女性たちが出てきた。長い髪の人が多かったように思う。そして表でたむろする男たちに「待たせちゃったね」というようなことを言った。その言い方が何だか格好良かった。粋という言葉は知らなかったが、今思えばそれはなかなか粋な言い方だったと思う。数人の女性たちが出てきて、立ち上がった男たちと連れだって去っていった。

彼らは旅の役者たちだということ知ったのは、翌日、近所のいつもよく行く菓子店まるやまのおばちゃんが教えてくれたからだ。地域の資産家で、夏になると踊りの会や盆踊り、秋祭では子供会の運動会などを私的に開く一族がいて、旅役者たちはその資産家に呼ばれてやって来たのだという。「○○さんの家の庭でお芝居やるよ。チャンバラや歌と踊りもあるから、見に行って来たらどうや」と菓子店のおばちゃんは言ったのだ。そして○○さんの大きな屋敷、といっても昔の豪農のような広い庭、母屋があって、蔵があり、牛小屋や納屋などがある大きな家の前まで行くと、昨日の男たちが同じように浴衣姿で芝居の段取りをおこなっていた。チャンバラであったり、櫓の上で何か演技をしたりしていたのだった。旅回りの役者というものを見たのは初めてのことで、おれは何となく彼らがだらしなくて、いい加減で、家や学校といった世界からはみだした者たちという印象を抱いた。親父は毎朝スーツ姿で出勤していくし、となり近所の大人たちも同じだった。友だちのなかには商店を経営している親たちも多くいたが、燃料店のN君の父はミゼットであちこちの家々を廻り、プロパンガスや豆練炭など重い荷物を運んでいた。一度豆練炭を持ち上げさせてもらったが、とても持ち上げられなかった。だからN君のお父さんは尊敬する大人だったし、八百屋のKさんの父母も、米穀店のF君一家も、毎日朝早くから店を開けていそがしそうに働いているのを見ていた。だから旅役者の彼らが明るいうちから風呂に入り、酒を飲んでいる姿というのがだらしなく映ったのだった。しかし湯上がりの女優が言った「待たせちゃったね」という言葉にある粋な感覚、これは自分のまわりの世界にはないものだった。ないものに違和感を抱くことは、嫌悪に行くのと憧れに走るのと同じ回路であることが多い。欠落はエロス的な願望であるといったのはバタイユだったか澁澤龍彦だったか。少年だったおれは、この得体の知れない旅役者の連中に、だらしのなさと同時に別世界への憧憬を抱いたのかもしれない。

それが具体的な形になったのが、大学で芝居を始めたときに連なるのだが、それより前、1977年の夏、金沢の辰巳という片田舎の古ミシン工場を改造した、山本萌氏率いる金沢舞踏館の館開き興行の手伝ったことによって、少年時代のトラウマが具体的な形になったというのが正しいかもしれない。土方巽門下の山本氏の元で、主に大工仕事などをおこなっただけであったが、公演本番が近づくにつれ東京や各地からやって来る不思議なダンサーたち……彼らに少年時代に見た旅芸人の匂いがオーバーラップした。だが、よくよく付き合うと彼らダンサーはだらしのない人間でも、いい加減な奴でもなく、朝早く起きてランニングをし、ヨガをやったり、ストレッチをしたりする身体的人間だった。「ダンサーは肉体が資本」とよく言っていた。もちろん酒は飲むし、すぐ裸になるし、町中でヘンな踊りをやりだすし、一緒にいてハラハラすること多々なる人たちではあったのだが、彼らには爽やかさがあった。身体をきれいにすることへのすがすがしさ、とでもいうのだろうか。そして夏が去り、おれは京都に戻って劇団を結成するのであった。いやだな、と感じていた役者という生理に向かい合う環境をみずから作ったというわけである。これをトラウマと呼ぶのかどうかは分からないけれど。

トラウマでもうひとつ挙げるとすれば、まだ幼い小学生の頃、親父に連れられて大阪環状線に乗って天王寺だったか桃谷だったかに出かけたとき、京橋駅を発車した電車の窓から赤く錆びた鉄の廃虚を見た。現在の大阪ビジネスパークあたりである。かつて大阪城内に造られた大阪砲兵工廠の残骸が昭和30年代後半あたりまであったのだろう。夏だったのか、電車の窓から錆の匂いが入り込んできた記憶がある。それは田舎暮らしのおれが嗅いだことのない匂いで、牛や豚、鶏小屋の臭さではなく、どこか工業的であり、何か大きな物体が腐乱した匂いと混じり合ったものだった。そして視覚的にも強烈だった。錆の城とでもいうのか、むき出しの鉄骨、崩れ落ちた煉瓦、ねじ曲がった鉄筋が前衛芸術のように突っ立っていた。当時は前衛芸術なんてしらないから、ヘンなもの、得体の知れないもの、お化け屋敷という認識だったが、その巨大な廃虚におれは死の気配に似た恐怖感を抱いたのである。電車はあっという間にその光景の横を通り過ぎたが、それから幾日もおれの瞼の裏に焼き付き残った。学校の図画工作の時間に絵にしたこともあった。そして教師に叱られた記憶がある。きっと訳の分からないものを描いたということで怒ったのだろう。その光景は今でも描けといえば描くことができるほど残っているのだが。

すっかりきれいになり、高層ビルが建ち並ぶOBP界隈を歩くことがある。錆の城は瓦解し、匂いは風の彼方に吹き飛ばされてしまったが、今でもどこかにあの前衛芸術のような廃虚のことを憶えている土があるのではないかと思ったりする。大阪城へ向かう坂道を中国からの観光客が歩いている。彼らに、あなたのトラウマは何ですか?と訊ねてみたくなる。
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by kazeyashiki | 2012-09-11 18:00 | 記憶 | Comments(0)

京都、久々   

朝から京都へ向かう。久方ぶりである。
このところ大阪周辺を行ったり来たりしていたので、
電車に乗って出かけることが単純に嬉しい。
歩くのもまた楽しい。
京都は歩く町……という固定観念がおれにはある。

午前中、老舗店を切り盛りする女性を取材する。
濃密な2時間。
しかし受け答えが明快で整理されていて、全く疲れない。
つまり、対話が弾む。楽しいのである。
用意した質問事項がさらに磨かれた形になるのを感じる。
こういう時間はいい。

午後からスタッフと打合せをし、その後単独で下見。
古都でもっとも古い花街である上七軒を歩く。
これまで何度も足を運んだおなじみの界隈である。
しかしいくつか複雑な出来事があって、
ここしばらく遠ざかっていた場所だった。

花街は、絶対に宵闇せまってからのものだ。
だから午後の昼光のなかを歩くのは、どうも具合が悪い。
夜なら見えないものが見えてしまう。
昼空に張りつく白い月を眺めるようなものである。
揚げ足りない唐揚げみたいな感じもする(違うか)。
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だが、写真を撮るには昼間がいい。
北野天満宮から上七軒の情景……
しかしこの花街を象徴する団子店は改装中で、
青いビニールシートが被され、内装工事の音と砂煙が上がる。
本番の撮影までに工事は終わるのか心配になる。
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花街のなかを歩きまわると大汗を搔いた。
秋風らしきものが時折吹いてくるとはいえ、やはり暑いは暑い。
千本今出川の交差点まで戻ってきて、喫茶店に入る。
昭和レトロな「珈琲静香」である。
知る人ぞ知る、昭和13年創業の店である。
初めて入ったのは大学1年の時で、
地域の年輩者の方々が集う姿にとても緊張した憶えがある。
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だが今はおれがその年輩者の一人であるから何の緊張もない。
さも馴れた所作でドアを開け、古いソファに腰を下ろす。
「ホットを。ミルク砂糖はいりません」なんて、あーいやだねえ。
お客さんは近所の女性や、ご隠居さん風情の好々爺、
観光でやって来た中年夫婦が物珍しそうに店内を見渡していた。
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やはり京都はいい町だなと思う。

繁華街まで戻ってきて、つい一杯飲みたくなるが、
ここ一週間、まったく飲んでいないので飲みたい虫が騒ぎそうだ。
飲むとだらしなくなるのは必至なので、やめて帰路に着く。
ちょいと一杯のつもりが、
〈そういえばK君の店に久しく行っていないな〉
〈Yさんが小さなカウンターバーを始めたと言ってたな〉
〈M君に連れられて行った店はよかったな〉
などと、一杯目の酒の酔いで発火してしまう傾向が大だ。

[年間を通して煩悩の数だけ酒を飲む]
という決め事をしていたのは新聞社のOさんだが、
おれもそれに習って、月に9日だけ飲むという目標を立てた。
8月31日に飲んだが、9月はまだ飲んでいない。
明日、東京からS君が日帰りで来阪するので、
最終新幹線まで新大阪界隈で飲むことになっている。
それがあるから今日は、というわけだ。

……と、言い訳しながら自分を馴らしているのが恥ずかしい。
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by kazeyashiki | 2012-09-06 21:00 | 京都 | Comments(0)