<   2012年 12月 ( 7 )   > この月の画像一覧   

年の瀬、雑感   

ようやく年賀状を書き終えた。
今年は年始の挨拶を遠慮しますというハガキが多く届いていた。
父母を失ったことがしたためられていて、享年が書き込まれている。
80歳前後が多かった気がする。
我が父も満79歳で亡くなった。
まもなく誕生日だったので、
仏壇にある過去帳には82歳と数え年で記されている。

年賀状はこれまで毎年それなりに書く習慣があったが、
「もういいのではないか」という気持ちがどこかにある。
だが、頂けば返事をしなければ礼節を欠く。
親類縁者に対しては、余計にそうした気持ちがあるのは、
普段親戚づきあいをしない後ろめたさがあるからだ。

今年は、昨年母が入院して危機的な状況にまでなったから、
年賀状で無事を報せるという目的があった。
そのついで、といっては身も蓋もないが、友人にも書いた。
印刷された挨拶文の年賀ハガキを購入したが、
そのままで出すというのは、やはり心許ない。
短文を添えた。
枚数があるからそれなりに時間がかかったわけだ。

年末から年始にかけて、ゆっくりはできない。
元日に母をわが家に迎える。
いつも世話をしてくれている妹家族にも休息が必要だし、
わが家も母に見せておきたい。
本人も好奇心があるのだろうか、行きたいと言っている。
いいことである。
母が息子の住んでいるところを訪れたのはもう15年以上前で、
そのときおれは高槻の氷室という町に暮らしていた。
まだ元気だった父と二人でやって来た。
もう母の記憶装置のなかにこのときのことなど消えているだろう。

まあ、なんと親不孝な息子であろうか。

大阪城へ母を連れていく計画を立てている。
もちろん車椅子に乗せてである。
晴れてほしい。

年始はすぐに仕事が始まる。
普通は4日もしくは7日始まりではないかと思うが、
物書きという職業柄、下調べしなければならないことが山積している。
下見しなければいけない場所にも出かける。
だが、正月時期やお盆など、
人が休んでいる間に働くことはまったく苦にならない。
むしろその方がいいとすら感じる。
人が出歩いているときは、室内で過ごして仕事をし、
人が会社などで働いているときに、出歩く。
その感覚が好きになっている。

そういえば、最近は正月時期に働いてもトクがないという話しを聞いた。
以前は、正月の間に働くと時給が高かった。
正月手当というのが付いていたのだ。
しかし最近は、少し時給は上がるらしいが、知れているそうだ。
学生時代、病院の食器洗いのアルバイトをしていたことがあり、
帰省せずに働いていた。
当時、7時間程度働いて4000円のバイト代に食事が付いた。
これが、大晦日から正月3が日になると、ほぼ倍額になったのである。
なんと魅力的なことだろう!
おれは進んでこの時期の仕事をした。
学生バイトはもう一人くらいしかいなかったので、
朝の7時から夕方の7時まで、
つまり病院の朝昼夕食すべての賄いを手伝うと、
長時間手当と正月手当がついて、通常の3倍弱くらいになった。
しかも調理のおばちゃんたちからは、たくさん差し入れを頂戴した。
「正月なんか、どこへ行っても混雑していますからね」
などと、いっぱしの口を聞いていたことだろうと思う。
そして多額のバイト代をもらって、溜まった下宿代を支払ったと思う。
いい時期だったなあ。
当然、年賀状などこの頃は書いていない。
何年も正月帰省など、していなかった。
正月に家にいたのは、中学生の頃までだったように思う。

そして今、年賀状を書き、元日に母を迎える。
親不孝息子の当然の報いであることは言うまでもない。
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by kazeyashiki | 2012-12-28 15:21 | 暮らし | Comments(0)

洛北の寺にて   

今日は一乗寺にある曼殊院門跡で撮影だった。
かつてこの近くのアパートに住んでいたことがあり、
この比叡の中腹にある寺へは何度かでかけたことがあった。

朝9時前に到着したら、粉雪が舞っていた。
やはり山から吹きおろす風はずいぶん冷たい。

曼殊院門跡は、佛教寺院らしくない寺だ。
桂離宮との共通点が多く、公家が凝って造営した寺院だからだ。
大書院には十雪の間、滝の間などがあり、
襖の引き手部分などは、扇や瓢箪が刻まれている。
修行きびしい寺院では見かけないものだ。
小書院は、茶室も併設された住空間のような建家で、
その縁に座ると枯山水の庭が見渡せる。
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この写真がそうで、小書院の横から大書院を見た構図である。
庭には滝から流れる水が表現されていて、
滝口は次の写真である。
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曼殊院門跡の建物は基本的には書院造りではあるが、
意匠や丸太を使った軒、茶室を思わせる床柱などがあり、
数寄屋建築のテイストをたっぷり含んでいる。
数寄屋とは、いろいろな用材を集めて好きに組み合わせた、
という建築方法だと、建築史の先生に教わった。
数寄とは「好き」でも間違いはないのだ。
ただし、数奇な、とは異なる。

寒くて足先が完全に冷えてしまったが、
案内してくれた方の博識さに感動していたので、
時間はたちまち過ぎてしまった。
やはり知らないということは滑稽なことだと思った。
今さらなにを、ではあるけれど。
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by kazeyashiki | 2012-12-26 23:22 | 京都 | Comments(0)

ふぐかも   

何年かぶりで、ふぐを食べる。
たいへん贅沢な食材である。
自分にはまったく似合わぬ料理だと思う。
だが、いただいた。
湯引き、てっさ、鍋をひれ酒で。
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昔、昭和30年代の話だが、
まだ大学生だった親戚の姉がある冬の夜、
「ふぐをご馳走になってきた」
と帰宅して言ったら、
その母親は「よかったね」と言ったが、
明治生まれ祖母は機嫌を悪くして、
「そういうものを若いあんたが食べるべきではない」
というようなことを言った。
ふぐは当時、玄人衆の食べ物だったんだろうか。
つまり、飲食関係や夜のお仕事をしている方々、
芸能関係、スポーツ関係の特別な人たちの料理、
という印象があったのかもしれない。

同じように、焼肉などもあまり口にしない料理で、
今のように若者が焼肉店に行くことはなかった。
それと同じなのが、パスタやピザの店で、
おれがピザを初めて食べたのは高校3年生のときだった。
梅田にあった店へ中学の同級生の平尾くんに連れて行かれた。
こんな美味しいものが世の中にあるのかと思った。
いまは一切れ食べて充分なんだけど。

冬は、かも鍋の季節でもある。
写真は、撮影で登場した鍋用の皿である。
京都の老舗料亭のもので、合鴨ではなくマガモだ。
高いらしい。そして、うまいらしい。
だが、食べなかった。あくまで撮影用なんですね。
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最近はできるだけ炭水化物をすくなめにしている。
ご飯、パン、ラーメンや焼きそば、パスタも控えている。
食べるとおいしいからキリがない。
毎日だってラーメンや焼きそばは食べられる。
だが、ふぐの仕上げはやはり雑炊にしたい。
これはぜひものであろう。
鍋に二人前のご飯をいれて炊き込んだものが登場した。
三人で食べていたのだが、たちまちなくなった。
うまいのは言うまでもない。
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by kazeyashiki | 2012-12-15 17:02 | 暮らし | Comments(2)

投票   

今週末は選挙の投票日。
おれの選挙区の立候補者が掲載された新聞が投函されていた。
ひと通りその経歴や主張、公約というものを読んだ。
政治および政治家に対してはさまざまな意見があるだろう。
すでに政党も立候補者も決めている人もいるし、
政治+政治家不信に陥っている人もいる。
だけど投票には出かけた方がいい、というのが受けてきた教育だ。
民主主義の基本は選挙にあると習ってきた。
たしかにその通りだとは思う。

政党の表情を見て、あれこれ言う。
党首の人物評価もいろいろあるが、感覚的な話もよく耳にする。
「舌足らずさが信用できん」「短軀が気に入らん」
「上からの物言いが腹立つ」「髪型が見苦しい」
「したたか顔が怖ろしい」「ムーミン顔が好きになれん」
「宗派が違う」「学級委員長みたいでイヤだ」云々云々。
すべて否定的なことばかりだが、
あまり人が政治家を誉めている言葉をおれは聞いたことがない。

選挙の投票日には、最高裁判所判事の国民審査も同時に行われる。
審査される判事の経歴と担当した裁判などが記された新聞も配布された。
これも精読した。
選挙定数配分、いわゆる一票の格差に関する記述や、
「君が代」斉唱に関すること、裁判員裁判の是非を問う裁判、
インターネットの共有ソフト「ウィニー」の問題などが、
各判事の挙げている内容に重複しているようだ。
いずれの判事も60歳以上だ。
ある程度の裁判での経験則がある人物が最高裁判事に選ばれるのだろうか。
彼らの意見を読んでいると、現在の社会から隔絶した感はない。
彼らを審査する材料はこの新聞でしかない。
ただ、その文章は硬い。特有の専門用語も散見する。
憲法を読んでも思うのだが、なぜ法律用語はこんなに難しいんだろう。

おれはこれまで最高裁判所判事の審査に関して、
すべて「問題なし」と書いてきたように思う。
「この判事はどうしても認めることができない」
ということはなかった。
それだけ裁判に関わりがなかったということなのだが、
関係する人にとっては、許せない判事がいるのだろうなあ。

いずれにしても12月16日という年の瀬の慌ただしい時期の投票。
結果が出れば、またそれによって何かが変わっていく。
本当に変わっていくのだろうか。
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by kazeyashiki | 2012-12-14 11:13 | 素描 | Comments(0)

芸能史   

学生時代、日本文化史の講義がいちばん面白かった。
専攻は仏教文化で、ゼミは中国から日本への佛教伝来についてだったが、
教理教義といった思想哲学的な領域ではなく、
中国の土着宗教である道教に、インドから入ってきた佛教がいかに混淆し、
さらに日本へいかに伝わって来たか……
こう書くと難しそうなテーマのように見えるが、見えるだけである。
おれが書いた論文はほとんど芸能史だった。ゆえに評価は低かった。

林屋辰三郎が好きで、著書を耽読した。
なかでも『歌舞伎以前』と『中世芸能史の研究』は稀にみる名著だ。
能楽や歌舞伎の源流にある田楽や猿楽などを知り、
芸能史とは民衆の歴史であること、
さらにそれらは郷土史や女性史、部落史にも結びついていく。
左翼的にいえば、芸能の歴史は日本階級史であるかもしれない。

林屋さんの講義は生では聴けなかったが、
ある夏、関山和夫先生が1週間通しで特別講座を開かれた。
関山先生は、愛知県の浄土宗西山派の寺に生まれ、
高校教師から女子大の先生を務められていた話芸研究者だ。
講義のテーマは「説教の歴史」。すぐに飛びついた。
岩波新書から同名の書が出版されていて、それがテキストだった。
すでに当時、学生劇団を結成していたので、
劇団員にも声を掛けた。「この講座はきっと面白いよ」。

講義は抜群に面白かった。
説教というのは話芸の源流である。
曼荼羅絵解き、祭文、琵琶、浄瑠璃、浪花節、萬歳、講談、落語と、
話す芸の根本、それが説教であると先生は定義する。
そこでおれは、落語の祖といわれる安楽庵策伝の「醒睡笑」を知る。
ここから初代露の五郎兵衛が登場し、講義は落語史へと進んでいく。
アッという間の1週間であった。

その後、関山先生がいろいろなイベントに出演されることを知った。
京都に来たときに見に出かけた。
そこに登場したのが小沢昭一さんだった。
永六輔さんも一緒だった。
小沢さんは日本の放浪芸に関して書やレコードを出すなど非常に詳しく、
映画やラジオで知っていた小沢昭一とはまた違う側面を発見した。
しかも話がうまい。おもしろい。
役者だから、ものまね、声色、演技などが次々と出てくる。
まじめであって不真面目、上げて落としてまた上げる、
身も蓋もないことを言っては取り返す……といったことが連続する。
まさに話芸であった。
もともと「ハーモニカがほしかったんだよ〜♪」という歌を高校生の時に聴き、
ケッタイナおっさんやな、と思っていた。
たまに映画やテレビで癖のある役を演じている程度しか知らなかった。
演技者としての評価はあると思うが、詳しくは分からない。
そんな小沢昭一さんが身罷った。83歳、自宅で亡くなったという。

今年は本当に名優たちが亡くなる年である。

合掌
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by kazeyashiki | 2012-12-11 10:25 | 芸能文化 | Comments(0)

梵鐘を撞く   

熱心な信仰者ではない。佛教の大学を出ているのにお経も詠めない。
信心ということでいえば低レベルであることはまちがいない。
だが、寺院が好きで見歩くことに喜びを感じる。神社にも出かける。
格式や由緒のある寺もいいが、小さな忘れ去られたような寺も好きだ。
廃寺という響きに憧憬を抱く。拝観料は高いな〜と思う方でもある。

過日、某寺の鐘撞き堂の前に立ったとき、
「どなたでもお撞きになってかまいません」と貼り紙があった。
合掌し、鐘を撞いて、また合掌するという作法くらいは知っている。
わずかな賽銭を箱に収めて、撞いてみた。いい音が長く響いた。
撞き終えて、合掌しながら思ったことがあった。

除夜の鐘は108つ撞くのであるが、
煩悩の根本にある三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)を払うものという説と、
1年=12ヶ月と、24節気、72候の合算である108という説、
「四苦八苦」の4×9+8×9の合計数だという説がある。
いずれにしても108だが、当然ながらおれは1回しか撞かなかった。

今年亡くなった方達のことを思い出した。
2012年は芸能関係の人々が多く亡くなった年だった。
表舞台に立っていた方々ばかりだから目立つのではあるが。
二谷英明、太平シロー、淡島千景、ホイットニー・ヒューストン、
安岡力也、吉本隆明、尾崎紀世彦、新藤兼人、伊藤エミ、小野ヤスシ、
地井武男、山田五十鈴、山本美香、津島恵子、春日野八千代、
島田和夫、大滝秀治、馬渕晴子、丸谷才一、桑名正博、桜井センリ、
若松孝二、森光子、牧野エミ、デイブ・ブルーベック、
そして先日、中村勘三郎が身罷った。

勘三郎の息子・中村勘九郎は南座の舞台で、
「父のことを忘れないでください」と頭を下げた。
「もちろんだ」という人が多かったと思う。
同じように、今年亡くなった方達でも「忘れない人」がそれぞれいる。
死とは、忘れないことによって、生に転化するものかもしれない。
死は忘却ではない。残った者が憶え、語り、想像することで今も生きる。
そういう可能性があるのではないか。

スーザン・ソンタグという作家で批評家で映画制作者がいた。
彼女の書いたものを何冊か読んでいる。
最近『私は生まれなおしている---日記とノート 1947-1963』が刊行された。
14歳から30歳までの日記である。
東欧系ユダヤ人の移民としてニューヨークに生まれた彼女は、
早熟で、知的で、激しい人生を生き、2004年に71歳で亡くなった。
日記なので散文的だが、それであるがゆえに彼女の内面が透視できる。
この本の序文に、彼女の息子がこのようなことを書いている。
「彼女は自分の日記を本にするのはいやがっただろう」
「私(息子)も望んでいなかった」(手元に本がないので詳細は不明)。
だが、ソンタグの本を読み続けてきた者としてこの日記は興味深い。
読んでいるかぎり、彼女は生きている。
さらに続編として2冊の日記が刊行されるという。
1963年以降、彼女が活躍しはじめた時期の日記だ。
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亡くなった芸能人は、新しい舞台に立てない。
作家は新刊を出さない。音楽家は新曲を発表できない。
それが死である。
だが、記録されて残っているものから推測することができる。
「あの人ならこう考え、語っただろう」と想像することができる。
それは愚かなことかもしれないが、視座をひとつくれるような気がする。
自分の狭小な思考に異なる立場からの視点を与えてくれる。
それが「忘れない」ことの本質と関わっていることではないかと思う。

母が危篤状態に陥ったとき、おれは母のたどってきた道をくりかえし思った。
憶えのない大正時代から戦前の若かりし青春時代、そして戦争。
その頃住んでいた福井市は空襲で焼かれ、さらに昭和23年に地震が襲う。
旧弊な家を飛び出して滋賀県の東レ工場で寮生活をして家に仕送りし、
やがて京都に暮らし、箕面の借家に引っ越して来てようやく結婚……
決して幸福な人生ではなかった母に幸運をもたらした病み上がりの父、
それから後は、おおむね幸せな生活を送ってきたはずである。
おれという出来の悪い息子を持ったこと以外は。
そうした母の人生を、病院からの帰路、
阪急電車のシートや梅田の雑踏のなかで思い出していた。
奇跡の復活をした今、そのときのことは遠い過去の一コマのように思える。
たった2ヶ月前くらいのことなのに。

鐘を撞きながら、「忘れない人」のことをおれはどれだけ思ったのだろう。
今年に旅立った人たちだけではなく、
かつての仲間たちのことも次々と思い出された。
そして「忘れない」ということを自分なりに証明していくこと、
それが残った者がすべきことではないかと思った。
「オヤジならこう言う」「わたるならこんな風にツッコむ」
「あみちゃんはきっとこう言う」……愚行かもしれないがふと想像している。

寒風のなかを歩けば、青空が目にしみる。
どこにもいない者たちに言葉をかけてみる。
きっと彼らは笑っているだろう。
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by kazeyashiki | 2012-12-09 13:07 | 記憶 | Comments(0)

ふたたび外套の季節がめぐって来た。   

寒風が落葉を舞い上げている舗道。
マンションの玄関前を一心に掃いている管理人さん。
冬がゆっくりと南下してきている。
朝早く街路を歩けば、マフラーで顔を覆った人たちが歩いていく。
みんなコートを着込んでいる。
オーバーや外套とはいわなくなったが、同じものだ。

おれもコートを着て外へ出て行く。
普段着は、キラーループというイタリアのスノーボードウェア製。
家人が店で働いていた時期、安価で買った。
今このメーカーは日本から撤退しているからショップはない。
すでに15年以上は着ているから、くたびれている。

一昨年、バーバリの紺色のコートを手に入れた。
自分で買ったのではなく、ある記念のプレゼントで頂戴したのだ。
これがなかなかいい。
着始めた頃、ヨーロッパ風の縫製だからか、腕や腰廻りがきつかった。
だが、次第におれの身体に合うようになって来た。
〈伸びた〉ということなのか、よくは分からない。
しかしだんだんと身体にフィットして来たことは確かなのだ。
今ではすっかり〈おれ用〉になってくれている。
いわゆる、トレンチコートと呼ばれているもので、結構高い。
貰わなかったら絶対に買うことがないだろう。
バーバリは1856年創業で、おれが生まれるちょうど100年前だ。
だからというわけではないが、とても気に入っている。
いつか町で盗まれてしまいそうだ。
アカーキー・アカーキエヴィッチのように。

昨日、ぷよねこ君と西梅田の「銀座屋」で立ち飲んだ。
ぷよねこ君は、コットンパンツに丸首で紺のセーター、
白いシャツの襟が出ているというスタイルで、髪も短く刈り込んでいた。
まるで「メンズクラブ」の〈街のアイビーリーガース〉といった感じ。

おれが高校生のころ、友人の間でこの「メンクラ」が行き来していて、
とりわけ人気だったのがこの〈街のアイビーリーガース〉だった。
街を歩く、無名でおしゃれな若者の写真が掲載され、
どこのメーカーのものであるかが明記されているという単純なものだが、
「やっぱりこのシャツはVANか」だの「靴はリチャードなんやな」
「このエンブレムはカッコイイな」などと言い合っていたのだった。
そんな中に、年輩だけど見事にアイビーを着こなしている人がたまにいて、
「渋っ!」などと言っていたのだが、
おそらくその年輩者の年齢は、せいぜい3、40代だったように思う。
高校生にとって40代は遥か向こうの世界の住人である。
「こういう大人になりたい」と思ったかどうか。
だが、今や50半ばの年齢に差し掛かっている自分を考えると、
高校や大学生がこちらをどう見ているか……気にならないけどね。

そうしたことからいえば、ぷよねこ君は「渋っ!」の50代なんだが、
果たして現代の高校大学生がアイビーリーガースを知っているかどうか。
そういうファッション・ジャンルがあることすら知らないかも。
彼にはぜひともダッフルコートを着用して、できれば足許は、
デザートブーツかチャッカーブーツでキメてもらいたいと思う。
完璧だ(^^;)

ぷよねこ君から、もう20年以上前にヨーロッパ土産に外套をもらった。
2着も。
濃紺のと、グレー地にいくつかの色彩糸が走る柄のもので、
前者は肩が凝るくらいに重い。後者は劇団員が欲しがったので贈呈してしまった。
濃紺の重い外套はここしばらくクローゼットのなかで眠っている。
着るにも体力が必要であることは、ここ最近の〈軽くて温かい服〉に反比例するが、
外套と呼ばれていた時代、それは当たり前のことだったのかもしれない。
〈ヒートテック〉なんて言葉もなかったわけだし。
山に登る人たちの姿をみても、昔と今じゃずいぶん違うもんね。
今年の冬、あの濃紺の、一度洗濯屋に出したら、
「これはどこのものですか!?」と驚かれた外套。
おれは洗濯代の高さに驚いてしまったのであったが、
あの外套くんを目覚めさせてみるか。

木枯らしの吹くたそがれどき。
吹きくる風にむかって顔をあげて歩いていくことは、寒いけど潔い。
縄のれんが、熱燗が、鍋が、なんて言ってはいけない。
やせ我慢する。
それがダンディズムだなんて言わないよ。
寒い季節の到来をすこし、
ほんのすこし、楽しんでいるだけなんだと強がっておこう。
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by kazeyashiki | 2012-12-04 15:13 | 素描 | Comments(1)