おかしな夢   

 標高600mくらいのところにある小さな神社を調査するため山路を歩いている。長らく人の手が入っていない社と聞いていたが、石段下まで来て見上げると、鳥居も掃き清められた石段の上に建つ社も光を浴びてキラキラ輝き、その中を幾人もの神職者や作業服を着た地元の者達が行き来している。「これは……調査の必要はありませんかも」と同行者が言う。


 すると別の者が地図を広げ、「この近くに白い建物の、神社とも寺院とも呼べない原初的な遺構があるなぁ」と言う。地図に描かれているのは、井戸を示す印である。ともかく向おうと歩き出した。


 途中、顎の尖がったやくざな男が塩っぱい声で「あすこへ行くには儂に支払うもん支払え」と喧しかったが、白紐で囲われた区域から外へ出てくることはないので我々の行く手を阻むことはなく、通り抜けることができた。


 やがて遺構が見えてきた。たしかに井戸のように見えるが、遺構とは思えないほどの純白さで、底を覗き込んだ者によると「鏡のように磨かれた水面が見えました」などと言う。調査隊は役目の終了を感じ、退散することになった。


 私は、木造二階建ての軒並みが続く古びた商店街を物見遊山しながら歩いていたが、見慣れた建物が視界に入ってきた。露天風呂や薬湯、電気風呂などの派手な看板を掲げた風呂屋で、その裏手に私は間借りして住んでいる。一旦部屋に戻るか、そのまま湯に浸かるか一瞬迷い、立ち止まっている時に目がさめた。


 別段、何ということもない夢だが、寝覚めはそこそこ爽快だった。


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# by kazeyashiki | 2017-02-25 16:59 | 素描 | Comments(0)

記憶の町へ   

大洲に出掛けたのはいつの頃だったろう。まだ学生で、大学紹介のアルバイト、寺院本堂に装飾を備えつけに、仏具店社員の男運転のバンで朝から国道を走り続けて夕方に到着した。

翌朝、宿から城が見えたのをかすかに憶えている。ただ、この写真の天守はまだなく、石垣の上に小さな櫓があっただけだった。大洲の町では、しばらくまえに撮影された寅さん映画の話をくりかえし聞いた。

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寺で脚立に乗り重くてきらびやかな装飾を支え持ち、終わって大洲から宇和島へ走り、午後いっぱい宇和島の町をうろついた。宇和島城の近くの高校のクラブ活動を眺めたりした。

夕方になり、社員に指定された居酒屋に行き梅錦と大皿の塩エビを食べ、酩酊した。居酒屋大将がブルース好きでウエストロードを流し続けた。その仏具店の子息がベース奏者だったから。

帰りがけ、大将は梅錦一升瓶を土産に持たせてくれた。今まだあの店はあるのだろうか。和風の居酒屋の壁に貼られた憂歌団と白桃房のポスターを憶えている。

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# by kazeyashiki | 2016-12-16 23:54 | 記憶 | Comments(0)

ジョン、あなたの国は今……   

空の彼方から、どんなふうに見ているんだろう。
そのままなら76歳だね。
マインドゲーム以降、もうあなたは英国には興味ない?
でも、Yokoさんは心痛めているだろう。
あなただって、それなら揺れるんじゃないか。
世界はあれこれつべこべ言いつづけて、
いつまでたってもchangeしないよ。
たぶんあなたのいた1980年のNYCのままで、
今ここに来たらあなたは呆れてしまうだろう。
ディランは新しい歌をうたっているよ。
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# by kazeyashiki | 2016-06-17 21:36 | Comments(2)

スーザンの声   

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ここしばらく『スーザン・ソンタグの「ローリング・ストーン」インタビュー』を読んでいる。
ジョナサン・コットがインタビューというより、二人の対話だ。
いろいろな世界のことを語っているのは、それがスーザンの世界だからだろう。

──あなたは世界のなかにいて、あなたのなかに世界がある。

そう、自分は世界に注意を払っている。そう感じている。自分ならざること、その存在とありようを強く意識しているし、並々ならぬ興味がある。それらを理解したいし、そちらに惹きつけられていく。

対話は映像を見てるようで楽しい。
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# by kazeyashiki | 2016-06-16 23:30 | 読書 | Comments(0)

林檎の種子   

 寺山修司の「書を捨てよ 町へ出よう』という映画を見たのはいつだったか。一乗寺の京一会館であったと思う。この映画に「もしも世界の終わりが明日だとしても、ぼくは林檎の種子をまくだろう」という言葉が引用され字幕で表記されていた。なんだかキザな言い方だなとその時は思ったものだが、今またこの言葉を頭の中でくりかえすと、こういうことを言う人も、映画の中で表す人も少なくなってきているのではないかと思う。

 いや、上映されている数多くの映画の中で、ふとした瞬間に、何か本質を突いているセリフが語られることはあるだろう。演劇や絵画、音楽をはじめ表現の世界においてもそれは同じだろう。だが、それらの言葉が取り上げられ、独り歩きしていくことが少ない気がする。本質を突くというのはぼくの主観的な解釈でしかないけれど、これだけネットが蔓延し、語られる言葉が膨大にふくれあがっているというのに、心を打つ言葉が見当たらない。どこか即物的で実利的で、現物支給の言葉のような気がする。現物支給は実用的でいいのかもしれないが、あまりに便利だとこれでいいのか?と疑問を覚えてしまう。

 「もしも世界の終わりが明日だとしても、ぼくは林檎の種子をまく」だろうか?と自問してみる。林檎の種子はどこで手に入れるのですか?ということを言う者もいるだろう。同時に、明日世界が終わる根拠が知りたいと質問する者もいる。どこに植えるのか?その時、空の色はどんな色?すでに地球のどこかは壊れ始めているのですか?助かる方法はないのだろうか?Q&Aのように質問が飛び交う。質問することにためらいがないのは構わないけど、考える前に尋ねることに僕自身も馴れている。当然、答えは用意されているだろうという甘えがあると思わざるを得ない。これって、やはり問題なんではないか。

 「読み、書き、考える」という言い方が学問の基本を成すものなら、そこに「問う」を加える必要があると言ったのは、S先生だった。問いかけることでグラウンドが広がると。しかし、僕は「読み、書き、問う」になっている自分を発見する。つまり、「考えていない」。情報過多は言い訳にならないと自戒した上で、なぜ「考えない」のかを考える。早く答えを知りたいからか。そんな性急さが必要なんだろうか。

 ふと思い出したが、寺山修司は飼っている亀に「質問」と「答え」という名前をつけていたそうだ。この亀たちは、仲が悪かったという。
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# by kazeyashiki | 2015-10-28 10:20 | 世界 | Comments(0)