2011年 02月 01日
冬の京都、木屋町三条上ル。
午後4時頃に終わり、北山通りあたりから堀川を下がり、
紫明通りから出雲路橋、そのまま賀茂川に沿って出町柳まで歩いた。
途中、出雲路橋西詰あたりで風景を携帯のカメラで撮影し、
幾人かの友人(石田貴子、金岡哉夫、塩田博、中西克己)に送った。
こんな文章を添えた。
「京都も北山通りを越すと雪の郷だった。
灰褐色のカンバスに輪郭のない雪花が舞う。
鞍馬貴船は人家があるが、
寺ひとつの雲ケ畑は雪に埋もれていることだろう。
吹き下りる山風、さすがに寒い。
出雲路まで下って来た。」
すぐに、塩田氏から返信メール。
那覇にいるという。仕事でプロ野球キャンプ地へ出かけているのだ。
街角の小さな商店の写真が添付されている。
「マジでサムイヨー」の一文。
寒い那覇の街で、京都が舞台の「マザーウォーター」を観たそうだ。
京都からのメール、シンクロニシティだ。
その後、中西克己氏から電話が入る。
僕は出町柳の手前を歩いていた。
氏は、河原町と烏丸の間の御池通りにいるという。
彼が京都にいるのはめずらしいことなので、
「では、寒いので一杯いきますか?」
新京極三条下ルの紀伊國屋書店前で待ち合わせた。
どこへ行こうか……
思案の末に「ふぉあぐら屋」へ向かうが、月曜定休。
店の向いにある本店の「極楽とんぼ」へ。
地下にある店で、オーナーのミアちゃんは旧い友人だけど、初めて入った。
和食中心のメニューで、店の装いは無国籍風(ちょっと南欧風)。
付き出しは「河豚皮と菜っ葉のぬた和え」と「数の子」。
ハートランドビールから日本酒の温燗酒に。
「牡蠣の天麩羅」「〆鯛」「自家製チーズおろし山葵醤油」と、
数あるメニューからfat氏が注文し、お銚子を三本。
冷えた身体がすっかり温まり、おなかの底が微笑みはじめた。
夕刻から飲りだしたので、表に出ると午後7時前。
洋酒を飲もうと、以前から名前だけは聞いていた酒場へ。
細い路地の奥に隠れるようにその店はあった。
「文久」という。
一本南の筋で営業している花屋「花政」が経営している酒場で、
店の名前は創業の年号。
御一新前が慶応で、その前が元治、
文久は万延との間にはさまれた1861年から1863年までの元号である。
こうした命名の仕方が京都らしい。
7〜8人も座れば……という小さな酒場で、
母屋の離れとして建てられた部屋を店にしている。
中西氏はジントニック、僕はラフロイグを注文する。
やがてマスターに話しかけ、彼が埼玉出身であることを知る。
「まだ京都には馴れていません」と言いつつも、
京女といつかは一緒になりたいという。
常連客がぱらぱらとやって来て、気がつけば4人の客になっていた。
与太話をしていると、少し離れた席の女性が話に入ってきた。
我々より先達で、女坂の中学・高校に通っていたという。
ご出身は?と聞けば、尼崎立花。
ここで中西氏が「くーーーっ」と腰を浮かせる。
氏にとって「尼のひと」は一種の痛点のような感覚がある。
これまで幾人かの「尼のひと」と接点があり、
その都度、氏は女性の有象無象森羅万象を垣間見てきたようだ。
「ここでも尼かよ」
しかし中西氏は嬉しそうにも見えるのである。
彼女は紅テントが三条の河原で公演したのも観たという。
ここで状況劇場が芝居を打ったのは1968年のことだ。
その後、アングラ文化の話で盛り上がる。
紅、黒テント、西部講堂、白樺、暗黒舞踏、土方巽など、
闇の底で鈍色の輝きを放つ固有名詞が次々飛び出して来る。
女性の連れ合いは、俳優の小林薫と同級生だったとか。
そんな時代もあったね……って感じなのだが、
この埃を浴びたような感触は、東京や大阪では味わえない。
なぜか京都の、あの身勝手な奔放さのなかにしかあり得ない。
僕はそんな風に思うのだった。
二軒とも、中西氏に奢ってもらった。
僕のこの貧困火の車はいったいいつまで続くのだろうか。
京阪電車で天満橋まで戻り、
中西氏が帰る上本町までタクシーに便乗させてもらう。