2011年 03月 02日
人間力
あまり馴染みのない言葉は、生理的に敬遠したくなる言葉になってしまうのは自分の欠点であるのかも知れないし、生理的な感覚で判断停止してしまうのはもってのほかかも知れないが、やはりこの「人間力」なる言葉、納得が遠い。ウィキペディアの解説に寄れば、「基礎学力、専門的な知識・ノウハウ、論理的思考力、創造力、コミュニケーションスキル、リーダーシップ、公共心、規範意識、知的能力的要素、社会・対人関係力要素、意欲、忍耐力、自分らしい生き方や成功を追究する力」といったものが構成要素だと書かれているが、書き写していてやるせなくなってしまう。
だからといってぼくは実社会、現実の世の中でこうしたものを学んでいくことが大事なんであって、というふうに言うつもりはない。学ぶということには「お約束事」があるのは確かで、簡単にいえば「読み、書き、考え、問いかける」という法則を知っておくことで、得るものの領域が広がる。だが、「読み」「書き」「考え」まではそれなりのラインで行けたとしても、最後の「問いかける」というところで躓いていることが多いように思える。この「問いかける」が「読み、書き、考える」とその内実を異にするのは、「言葉を発する」というところにあるからではないか。読むこと、書くこと、考えることは黙ってできる作業である。つまり一人で単独行動できる行為である。だが「問いかける」は黙してもできるが、ふつうは他者に問いかけることを意味する。質問する、疑問を呈する、教えを乞う。「問いかける」ことには、人間力の定義である「論理的思考力」や「創造力」そして「コミュニケーションスキル」などが必要になってくる。ということになれば、話が前後していないだろうか。
まず「問いかける」ということを最初に学ぶ(知る)ことで、「論理的思考力」や「創造力」を得ることができ、他者とのコミュニケーションが可能となる。最初から論理的思考力を持って産まれてきた者はいない。読み、書き、考えることでその下地を作り、問いかけることによって得られる要素ではないだろうか。その地平の向こうに「論理的思考力」なり「創造力」という泉が待っている。そう思うのだが。
「人間力」という言葉をお題目のように唱えても何も産まれないことは、東大の先生たちもよくよく分かっているだろう。独り歩きしてしまうと危険な言葉でもあると思うのだが。