2011年 06月 08日
京都にて。
偲ぶ会、想い出話はいつもどこか切なさがある。主人公のいない物語を紡ぐのだから、その不在感というひんやりとした風が吹いているからだろう。郷愁ではなく、これまで生きてきた年数の重さに、あらためて気づかされる。
経過を聞いた。5月17日に岩倉のアパートで弱っているあみちゃんを訪ねてきた友人が見つけ、病院に入院させた。その日にミアちゃんが訪ね、元気に話をしていたという。それから2週間、いそがしさもあって見舞いに行けなかった。そして5月30日に病院に出掛けたら、2日前にあみちゃんは亡くなっていた。
あみちゃんはだれにも看取られず、ひとりで旅立っていったのだ。親族は離散していて、双子の弟は所在不明のまま、父母はもういなかった。孤独の死であったことを思うと胸が締めつけられる。入院していることを報せてほしかった、というのはこちらの身勝手な言い分である。
どのように葬儀がおこなわれたのか、だれも知らないままだ。そのことがとても悲しい。
劇団員が次々と駆けつけた。名古屋から明日香、大津から元ちゃん、長江、和田夫妻、大道具田島、そして小林夫妻。このうち明日香と長江は、島田誠彦の死を知らず、告げると驚き、言葉を失っていた。われわれの間に長い時間が経ったということなのだ。
富山の中学を卒業して一旦京都にやって来たあみちゃんは、その後東京に出て六本木や銀座の店で働き、また京都に戻ってきた。そしてぼくと出会ったのが27歳の時で、「なんにもできないオカマよ!」と言いながら劇団に入ってきた。健康状態もまだよくて、古くからあみちゃんのことを知る人達は、彼女が最も輝いていた時期を劇団で過ごしたんだ、と口々に語った。そうなのだ、芝居という空間に身を置いていた時期のあみちゃんは光り輝いていたんだ。
彼女が大事にしていた一葉の写真。それはどこかの海水浴場で、双子の弟と母たちと一緒に写っている。この写真をずっと持っていた。記憶の風景、それがあみちゃんの信仰心だったのかもしれない。
書き込んでくれて、どうもありがとう。
迷夢迷住、今でもしっかり憶えています。いい芝居をされていました。
作品の感受性、演出の繊細さ、役者の演技の丁寧さ、
これは我々にとってとても勉強になる舞台でした。
家人はとりわけ迷夢迷住のお芝居が好きで、今でも語っていますよ。
お手伝い頂いて、あらためて、ありがとうございます。
升さんが出演されていたのは「怒濤の都」の第一作目ですね。
もうずいぶん以前のことです。
あみちゃんが亡くなって、
いま、彼女が好きだった歌、つまり彼女が登場するときに流してほしい!
といった歌を思い出しながら、
彼女のせりふをコラージュ風にまとめる作業をおこなっています。
それで小さな舞台、朗読劇のようなものができればと考えています。
きっと喜んでくれるだろうと思いつつ……。