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時代小説のいい文章から   

読んでいる本で、いい文章、いいセンテンスがあったら、手書きで書き写すということを高校時代からしていた。当時の国語教師が進めたからで、そのときは「ふーん」なんて思ったものだが、実際は中学生のころ、読んでいる本の一文節をノートに書いていた。

いまもそのノートが手許にあって、開いてみると噴飯ものだ。いわゆる箴言や格言みたいなものばかり書き写している。有名な「恋をして恋を失ったのは、まったく愛さなかったよりもましである。byテニソン」をはじめ、「嫉妬は、恋の姉妹である。悪魔が、天使の兄弟であるように。byブーフレール」「革命は民衆への愛のため、恋はひとりの女への愛のため。byチェ・ゲバラ」「愛する女といっしょに日を送るよりは、愛する女のために死ぬ方がたやすい。byバイロン」といった具合。

あー、恥ずかしい。

次の文章は、比較的さいきん読んだ本のなかの一文である。書名、分かりますか?

「笑いながら店先に腰を掛けたのは四十三の痩せぎすの男で、縞の着物に縞の羽織を着て、だれの眼にも生地の堅気とみえる町人風であった。色のあさ黒い、鼻の高い、芸人か何ぞのように表情に富んだ眼をもっているのが、彼の細長い顔の著しい特徴であった。かれは神田の半七という岡っ引で、その妹は神田の明神下で常磐津の師匠をしている。Kのおじさんは時々その師匠のところへ遊びにゆくので、兄の半七とも自然懇意になった。
 半七は岡っ引の仲間でも幅利きであった。しかし、こんな稼業の者にはめずらしい正直な淡泊(あっさり)した江戸っ子風の男で、御用をかさに着て弱い者をいじめるなどという悪い噂は、かつて聞こえたことがなかった。彼は誰に対しても親切な男であった。(略)
 二人は安藤坂をのぼって、本郷から下谷の池の端に出た。きょうは朝からちっとも風のない日で、暮春の空は碧い玉を磨いたように晴れかがやいていた。
 火の見櫓の上に鳶が眠ったように止まっていた。少し汗ばんでいる馬が急がせてゆく、遠乗りらしい若侍の陣笠のひさしにも、もう夏らしい光りがきらきらと光っていた。」

時代小説が好きなひとなら「半七」でピンとくると思う。
正解は、岡本綺堂の『半七捕物帳』。平明で、のびやかで、気持ちのいい文章だと思いませんか?だけど、驚くのは岡本綺堂がこの文章を書いたのが、大正6年のことだということ。全然、古さを感じさせない文章だ。

綺堂は当時、翻訳されたシャーロック・ホームズに啓発されて「半七」の物語を書き出したのだという。
上記の文は、12歳の岡本綺堂が、父の友人であるKに、旗本屋敷で起きた幽霊さわぎにまつわる岡っ引・半七の話を聞くところのもの。ここでは「岡っ引」という身分が何となく胡散臭そうに書かれている。「こんな稼業の者にはめずらしい正直な江戸っ子風男」と半七を素描しているが、「岡っ引」とは、町奉行所の与力につく同心がいて、その同心の下につく存在であり、「小者」というのが「岡っ引」の表向きの名称なんだそうだ。奉行所から給金は出るが、よく出て月に一分二朱、現代の金額でいえば25000円から3万円程度だ。これでは生活できない。だから「岡っ引」は女房名義で商売をする。湯屋や小料理屋が多かったそうだが、地方では博徒が十手を預かることもあったそうで、「二足のわらじを履く」と仲間から内心で蔑まれていたとか。

それでも「岡っ引」になりたい者が多かったのは、同心から「手形」いわゆる身分証明書を渡されるからで、これを楯に町民や商人を脅迫したり、恐喝したそうだ。つまり、悪さをするために「岡っ引」になったというわけ。そんななかでも半七さんは「まっとうな岡っ引」だった。

半七が実在の人物かどうか、岡本綺堂は笑って答えなかったそうだが、文政六年(1823)に日本橋で生まれ、18歳で岡っ引となって以来、名探偵ぶりを発揮して難事件、珍事件を解決していく。明治維新で廃業して唐物屋を営んだが、日清戦争(1894)を区切りに隠居して赤坂に暮らし、明治37年(1904)に80歳で没したという。

この時代の人物、おもしろいひとが多いですな。清水次郎長親分もそうだし、司馬遼太郎の傑作『俄』の主人公、大坂の親分である明石屋万吉さん、わたしの名前にかぶる上野彦馬さんなどもそうだ。

とまあ、いまは時代劇とは全然関係のない原稿を書いているので、筆休めのつもりで書き出したらこんなに長くなってしまった。失敬失敬。

by kazeyashiki | 2011-09-02 15:00 | 芸能文化 | Comments(0)

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