2011年 12月 16日
外套の季節
物語の主人公の名は、アカーキイ・アカーキエウィッチという、魅力的なのか蠱惑的なのか、よく分からない名前の男。場所は「灰いろの空がまったく色褪せ」たペテルブルグの話だ。時代は、この物語が発表された年代とすれば1840年頃の話である。
ストーリーは単純だ。
主人公アカーキイ・アカーキエウィッチ(アカーキエヴィッチという表記もあるが、ここは手持ちの平井肇訳の岩波文庫に従う)が一大決心をして外套を誂えるのだが、仕上がった外套を着て街を歩いた晩、「何者か、髭をはやしたてあいがにゅっと立ちはだかっているのを見た。」そして「アカーキイ・アカーキエウィッチは外套をはぎとられ、膝頭で尻を蹴られたように感じただけで、雪の上へあお向けに顚転すると、それきり知覚を失ってしまった。」のである。もちろん外套は持って行かれた。
アカーキイ・アカーキエウィッチはさまざまな手段を使って失われた外套を探すが、見つからない。逆に、叱責されて傷つき、「吹きすさぶ吹雪の中を、口をぽかんと開けたまま、歩道を踏みはずし踏みはずし歩いて」、扁桃腺を腫らし、高熱を出し、そのまま死んでしまう。なんという哀れな結末か!
だが、「ところが、これだけでアカーキイ・アカーキエウィッチについての物語が全部おわりを告げたわけではなく、まるで生前に誰からも顧みられなかった償いとしてでもあるように、その死後なお数日のあいだ物情騒然たる存在を続けるように運命づけられていようなどと、誰が予想し得ただろう?」という、吸引力のある続きの物語に読者は引き込まれてしまう。
なんと、アカーキイ・アカーキエウィッチは死して後、幽霊となってペテルブルグの街角をさまよい、エラそうにしている人物の外套をはぎとり、しまいには、彼を叱責し傷つけた町の有力者(あるパーティの後、愛人の家に向かっていた)の外套を、見事はぎ取ったのである。
この奇妙な小説に、ガキのおれはいたく感動してしまったのであった。マイナーといえばマイナー、暗いといえば暗い。青空とそよ風の季節を生きている中学生にはふさわしい小説ではない。
そして今でも、木枯らしが吹きはじめる季節になると、この暗い小説を思い出す。毎年読んでいるわけではないが、師走の、クリスマス前の、物いりの、しかし素寒貧でどうしようもない時期になると、無性に読みたくなるのだった。
一度、声に出してみてください。「アカーキイ・アカーキエウィッチ」、あるいは「アカーキイ・アカーキエヴィッチ」と。すると、どうでしょう、四方八方から吹く風の街、ペテルブルグの情景が目に浮かんで来ませんか。小路に店を出す肉饅頭がうまい屋台や、湯気を上げるシチュー店、焼きたてパイを売る菓子店、強い酒を呑ませる居酒屋、嗅ぎ煙草店などが見えて来るでしょう。これがアカーキイ・アカーキエウィッチという名前が作る魔法なのであります。
この冬、ゴーゴリの『外套』を是非是非。
ロシア小説の時代というのが僕の青春期にもあったことを思い出した。ドストエフスキーの「貧しき人々」だったか。老人と少女の手紙のやりとりで進められていく物語とも言えない物語、思えば自分たちのあの頃で言えば老人と同じくらいの年代に近づきつつあるのですね。今、少女と「貧しき人々」のような文通がしてみたい。でも今のこの国の少女ときたら、ですね。
外套といえば僕がベルリンの泥棒市で買ってきた外套はまだありあmすか。いまの冬の暖かさでは無用のものになってしまいましたね。あれは高価なものですから質屋にでも入れて年越し資金の足しにすることをおすすめします。