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伯父について

「伯父の不在」ということを考えている。自分に関してではなく、日本社会を自分なりの狭小な視線で見ての話である。なぜそんなことを考えるのかといえば、司馬遼太郎と林屋辰三郎の対談を読んでいて、そのなかで司馬が次のように言っていたことがキッカケだ。「戦後、日本で失ってならないものがいろいろ失われたけれど、伯父というものがなくなったのもその一つだ」と、司馬の友人が嘆いていたという。

伯父というのは、自分の父母の兄、もしくは姉の夫である。一方、叔父というのは弟、もしくは妹の夫にあたる。

伯父というのは、分家からみて本家の当主であり、いろいろ家の面倒をみる立場にあった。たとえば分家の息子が「大学に行きたい」といえば、学資を出すというような具合に。しかし今の社会、家の制度自体が崩壊し、伯父の存在もほとんど見えなくなってきている。

だが、と司馬はここで断りを入れている。
「それが西日本出身の私にはピンとこなかった。〈へえ、関東では、そんないいことがあったのか〉と私は言ったのですが、西のほうは、概して伯父なんてものは頼りにしていない。伯父が一族郎党のめんどうをみるという伝統が薄かったものですから。ひとつには西日本には、近世が早く来て、土地が細分化されて、大本家というものがなかなか成立しにくかったということはありますね。しかし大雑把に言えば、血族社会の義務として本家というのものが厳然としてあったというのは、ごく最近の関東の風ですね。」

東日本は父系社会、西日本は母系社会であるという説がある。ふたたび司馬の発言。
「関東が父系社会であったということにも、同じような関連が考えられますね。西日本は多分に南方的な母系社会のにおいが強い。かつて西日本を中心として若衆宿や妻問の風習がありましたが、これは母系社会の民俗ですね。
 ところが関東というのは、厳格な父系社会のにおいがする。そしてそれは、どちらかというと、地理的には北アジアから関東に入ってくる太い何かを感じさせますね。
 関東を考えるうえで、頼朝が下限ですから、そのことでいうと、稲荷山鉄剣から急に下限に話が移るわけですけれども、頼朝は父系社会で育って、父系社会の文化を身につけている。生まれは近畿ですけれども。一方、義経は母系社会で生まれた。母系社会で生まれると、嫡庶の別は曖昧になるのでしょうね。ですから頼朝を兄貴だ兄貴だと思っているけれども、父系社会の中では、そこに厳然として一本の線がひかれていて、頼朝からみれば義経は家の厄介人であり、家人となるべき人間です。まして母親の違う弟、そういう者が自分と同格のつもりでやって来るのはがまんできない。
 京都の公家というのは、兄貴も弟もそんなに差はないわけですけれども、関東の父系社会というのは継承に伴う序列がきちっとしている。これをいきなり朝鮮半島や北アジアの制度と比較するのはムリかもしれませんが、たとえば朝鮮半島や北アジアでは、骨は父親から、肉や血は母親から受け継ぐと考えていた。そして最も大事なものは骨であると。
 朝鮮語で骨のことは「ポン」といいますが、ポンはまさに本貫のことで、これは家の系図の骨格のことを言うようです。やっぱり骨ですね。日本語の骨と、ひょっとすると語源は同じかもしれません。日本語の場合も、奈良朝以前は、骨のことを「ポネ」と言っていましたからね。それはともかく、ポンを大事にした「満州」あるいは北アジアにいた遊牧民も、やはり父系中心であって、母系はまったく考えられない。南方とはまったく違います。そういう北方の血縁社会制度が、関東に反映しているように思いますね。」

おれの場合、父母ともに長男長女であったために、伯父は存在しない。たとえいたとしても、西日本出身者である父母の系統であるため、伯父の存在は大きくはなかったにちがいない。

日本という国の社会、家族制度というものは、ある意味で大きく瓦解している。それがいい悪いという判断をここでするつもりはないのだが、たとえば地方都市などへ行けば、こうした家族制度、血族制度が息づいていることに触れることがある。瓦解したとはいえ、他者からは見えない領域でこの制度がきっちりと(隠されたように)存在していると想像する。なかでも農家、農村について考えるとき、この制度に抵触せずに考えないわけにはいかないだろう。むろんそれは、農作業という重労働(機械化が進んだとはいえ)をおこなうための協力体制には、地域共同体の者たちよりも、一族郎党、血族関係者の方が上位に置かれる。それによって日本の農業が成り立っている。いや、成り立っていたと過去形で書く時代に入ろうとしているのかもしれない。

「伯父」の存在は、東西の文化、父系母系社会の構造の違い、武士の登場(林屋は、武士ではなく名主と言うべきだと述べている。つまり農場主)など、この国の歴史とも連関するように思う。

考えがまとまらない、ということは、まだ書いてしまうのは早すぎる内容であり、不可解な文章になってしまった感がある。思考の途次だとご容赦願いたい。
by kazeyashiki | 2012-01-27 10:00 | 世界 | Comments(0)

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