むかしの光   

 母は眼も耳も悪くなってしまっているので、署名しなければならないものなどはおれが代筆する。
文字そのものは書けるのだ。よくメモ帳などに作句などしている。決して頭が退化しているわけではなく、署名文書の細かな文字が読めない。それらは主に行政体から届けられるものである。代筆でむろん構わない。

 生年月日を書く欄には、まだ「明治・大正・昭和・平成」と、四つの時代の元号が書かれている。
いずれ明治が、そして大正が消えていくのだろうと思うと、はかない気持ちになる。母は大正生まれである。8年、1919年である。大正に丸印をつけ、12月10日と記す。これはおれと同じ誕生日である。母と息子が同じ誕生日というのも何であるが、いささか気恥ずかしい気がしないでもない。幼い頃は嬉しかったのだが。

 大正8年=1919年は遠いむかしである。だが、この年に生まれた方々は今もカクシャクとしていらっしゃる。御年93歳の人たちはだれかといえば、田端義夫さんバタヤンだ。この人のことを数年前、テレビのワイドショーで見た。「90歳までは歌う」と宣言していて、そのとおり90歳の誕生日に歌ったというものだった。バタヤンは酒も煙草もやらず、発声練習を毎日欠かさないらしい。おそらく今もつづけておられるだろう。アニメーターのやなせたかしさんも同じ年の生まれだ。それと調べてみて分かったのだが、「花はどこへ行った?」のピート・シーガーが健在なことだ。バタヤン同様、90歳の誕生日にニューヨークの大学で歌ったそうだ。

 オヤジは1924年生まれである。つまり母より年下だった。結婚したのは昭和30年で、おれが生まれる前年である。オヤジ33歳、母は37歳である。かなりの晩婚である。事情があった。昭和17年(1942)19歳で兵役についたオヤジは満州に出兵し、さんざん大陸内を移動した挙げ句、病気になり終戦時は上海の病院で迎えた。そして復員できたのが昭和22年。その後、結核を患って和泉砂川の診療院に数年いて、ようやく仕事をしはじめたのが20代後半だった。オヤジにとって結婚は目の前になかった。一方、母は四姉弟の長女で、働いていたことから婚期を逃し、妹たちが先に結婚していくのをみながら、「もう私は結婚なんかせえへん!」とスネていたらしい。つまり縁がなかったのだろう。男という性に一種の懼れを抱いていたようなフシもあったようだ。

 そんな二人が、間に立つ人がいてめでたく結婚。翌年におれが生まれたのだから笑ってしまう。

 オヤジが生まれた1924年は大正13年で子年である。甲子園球場が完成した年でもあり、同年代生まれには安部公房、黒岩重吾、吉行淳之介、吉本隆明、川上宗薫、越路吹雪、淡島千景、乙羽信子、鶴田浩二、春日八郎、三木のり平、力道山、マーロン・ブランドといった人がいる。ご存命の方では、村山富市、山崎豊子、そしてジミー・カーター元米大統領がいる。御年88歳、米寿である。

 オヤジの生年の翌年大正14年(1925)に生まれた人物として、三島由紀夫がいる。今日は氏の命日である。憂国忌として東京では集まりがあったと思うが、メディアでは取り上げられてはいないだろう。三島が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室で決起クーデターを呼びかけたのは今から42年前の昭和45年(1970)のことだ。すでに堆積した過去の靄のなかにある。だがおれは、この三島事件と呼ばれている行動を下敷きにして芝居を書いたことがあって、今も記憶装置のなかに残っていて、ときおり沸き立つように思い出すことがある。もっともこのときおれは中学2年生で、中間試験かなにかで早く帰宅した川西大和の家で、母が「たいへんな事件が起こっているよ」とテレビを指さしたことが第一の記憶だった。だが、そのときおれが読んでいたのが三島の『潮騒』であったことで、少なからずショックを受けた。三島の思想信条、右翼的言動についてはまったく知らなかった。青春文学の作家として『潮騒』や『花ざかりの森』を読みはじめたばかりだったのだ。

 そして20数年を経た1990年代、『神隠しの小径』という戯曲を書いて銀色昆虫館で上演した。戯曲の完成度はよくなかった。だが、この芝居の劇中歌を山崎秀記くんが作ってくれて、これは名曲だった。これにすこし出演してもらった岩田さんや金岡チカヲは今でもこの歌を憶えていてくれて、飲み屋で歌うこともある。戯曲の内容は忘れても、歌は憶え伝えられて残っていく。名曲ゆえに、であると思う。この歌を口ずさむたびに、1970年という薄青い自分がいた時代の匂いと気配を思い出す。同時に、芝居を上演した薄暗い新宿や扇町の劇場の気配が甦ってくる。そしてそこにはいずれも柔らかで弱いひとすじの光が射している。スポットライトではなく、シーリングライトでもなく、ホリゾントでもない。それは音響照明のオペレーションルームから洩れてくる弱々しい電球の光だ。ブルーのゼラチンで電球を覆ったすき間から客席にこぼれ落ちる灯りだ。匂いのするような光である。

 明治大正昭和平成と時代は続いているが、それぞれの時代に生まれた者たちが遺したものがどこかでつながって、引き継がれていく。おれもその路線の上にいるのかもしれない。そういえば今朝見たテレビ番組「題名のない音楽会」で作曲家の宮川泰特集をやっていて、氏の名曲のひとつである「銀色の道」の作られた背景を息子の彬良氏が語っていた。銀色の道とは、泰氏の父が働いていた紋別の炭坑に敷かれたトロッコ線路(鴻紋軌道)が戦争によって供出され、線路の跡に残った轍に夜露が溜まり、月光を浴びてキラキラ輝いている様を歌ったらしい。敷設した線路を剥がし取られる無念さと撤去後の跡の輝き、それが「銀色の道」だと。

♪〜遠い遠い はるかな道は冬の嵐が吹いてるが 谷間の春は花が咲いてる ひとりひとり今日もひとり 銀色のはるかな道〜♪

むかしの光がそこに射している気がする。
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by kazeyashiki | 2012-11-25 23:59 | 記憶 | Comments(0)

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