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死の山脈

劇団創立当初からしばらく音響を担当してくれた島田誠彦。
やはり初期から舞台の上でも、裏でも頑張っていた亜己婆。
二人はすでにこの世ではなく、虚空に居る。
二人の記憶と現在を一本の芝居にしたいとずっと思っている。
しかし時期がどんどんずれていく。これはおれの責任である。

この世にいない彼らに対してメッセージを送りたい。
もちろん彼らには届かない。
だが、彼らのことを思っているこちら側の人たちに届く、
そう信じている。
二人ともおれは死に目にも会えず、葬儀にも参列できなかった。

あれは梅雨入りする前、2010年6月のこと。
島田誠彦の訃報を、東京で受け取った。電話で報せられた。
帰るに帰れない事情があった。たった2時間半の距離だというのに。

亜己婆は、病院で一人で死んだ。
体の調子が悪くて入院し、友人が見舞い、元気な様子を確認した。
だが2週間後に見舞ったら、2日前に亡くなっていた。



おれの周囲に山脈のように、死の山なみがつづいている。
それは2004年のオヤジの死から隆起しはじめたように思う。
オヤジの死は活火山のようにいきなり地平が隆起した。
高い山だった。
麓にいたおれは、その山容をちゃんと眺めることができなかった。

それから4年後の秋、少年時代からのなつかしい友を失った。
悩み抜いたすえに選んだ死だった。
その半年前に会ったとき、「あの唄をうたってくれ」と言われた。
中学時代によく歌っていた、せつない感じの唄だった。
彼はじっとおれの唄を聴いていてくれた。

翌年の3月、
アジア諸国へ共に出かけて映像を制作したカメラマンが、
長い闘病の果てに亡くなった。還暦を迎えたばかりだった。
このブログに貼っているおれの写真、
これはインドのゴカックにある宿舎の庭先で、
カメラマンが撮ってくれたものだ。
彼は子どもたちに人気があった。
ベトナムの撮影時、「モーおじさん」と親しまれた。

そして3ヶ月後の6月、島田誠彦が急死した。

さらにその数日後、かつて農業関係の仕事で、
日本各地へ撮影に一緒に出かけたプロデューサーが、
63歳という年齢で逝ってしまった。
いくつもの約束を残して。

2010年になり、西天満一座の仲間ワタルが逝ってしまった。
太融寺のBarで、ぷよねこ氏へ掛かってきた電話で報せられた。
すぐにアフターアワーズに向かい、岩田さんに告げた。
彼女は絶句し、涙を流した。
店を出るとき、マスターが心細げに目頭を弛ませていた。
ワタルのことは語り尽くせない。
書き出せばさまざまなことが甦り、つながり、連鎖していく。
また改めて書きたい。

翌11月、幻実劇場の遊さんが亡くなり、
さらに同月、北野病院に入院中の阿部さんが逝ってしまった。
阿部さんは多くの人に愛された人物だし、
おれが書くべきことなどないに等しいのだが、
一度だけ2人で飲んだことがあった。
たまたま居酒屋で出会ったのだった。
今はなき東通りの「正宗屋」。
カウンター席でおれが独酌していると、阿部さんが来た。
「おう」といって隣の席に座り、
瓶ビールと「アジのフライ」を「糖尿病患者用に」と店主に注文した。
訊ねると「塩気を全然使わぬアジフライ」だという。
本当にそんな調理法ができるのかどうか。
飲みながら、阿部さんの中学高校時代の話を聞いた。
その話は、
『1969年、新宿PIT INNからはじまった あべのぼる自伝』に詳しい。

東北地方を大きな地震と津波が襲い、大勢の人間の生命が失われた。
おれは大きなショックを受け、為すすべもなくジタバタした。
一度に多数の人の生命が失われたという事実が直視できなかった。
だがその事実は真実を証明されていき、途方に暮れ、茫然とした。

その年の3月、
亜己ちゃんは震災のことを知った上で死んでしまった。
話をしたわけではない。
長く会わずにいた。
時々電話で話すことはあった。
亜己ちゃんは携帯電話を持ったのだと嬉しそうに話していた。

山脈を作っているこの人たちの携帯電話とメールアドレスは、
今もおれの携帯アドレスのなかにいる。
消せない。
できれば勝手に消えてくれればいい、などと身勝手に思う。

うねるように、脈々と、おれのなかで〈山〉が形づくられていった。
死の山脈、魔の山のように思えた。

ここ最近、この山脈に母の山が加わるのではないかと思った。
母は死の淵まで歩いていったことだけは確かだ。
境界線ぎりぎりにまで歩を進めた。
おれと妹は確信に近いものを感じ取っていた(はずだ)。
だが主治医がいうように、奇跡のように復活した。
生還というのではなく、復活だ。

人は心のなかに山脈を持っているものなのだろうか。
今はいない人々の記憶の山脈。
悲しいとか、さみしいとか、つらいとかではなく、
生きとし生ける者が必ずたどり着くときに立ち会ったこと、
その時こそ、自分が生きているという証左である。

逝ってしまった者たちへの追想もある。
彼らのなかに記憶されている生きているわれわれ、
ともに共有した出来事、時間がある。喜怒哀楽がある。
死はそれを消去してしまう装置なのではないか。
だが、だから、生きている者は口惜しく、せつない。

島田誠彦と亜己婆へ向けた芝居をすることで、
生きている者は答えのない質問を問いかけるのかもしれない。
それでいいと思う。
by kazeyashiki | 2012-11-28 15:33 | 記憶 | Comments(0)

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