2018年 08月 10日
天狗様の話
母の故郷は福井県美山というところで、現在は福井市に編入されているが、昔は独立した小さな村だった。母から聞いた話で、やはり天狗にまつわるものがあった。
だいたい天狗話というのは山神としての逸話が多く、深山の地域などでさかんに天狗伝説が語られているが、母の故郷もやはり山の中のことだった。
話は二つあって、ひとつは母が幼いころに近所の木こりから聞いた話だ。
木こりたちが山の奥のさらに奥で木を伐りだすために数日間、寝泊りする小屋がある。数人の木こりたちが寝ていると、夜中に急に小屋が揺れ、小屋の中をごろごろと転がるほど揺さぶられるという。「うわぁ、天狗様の揺さぶりや」と木こりたちは身を縮め、揺れが収まるのをひたすら待つ。その間、木こりたちはその日に伐った木のことを思い出し、どの木がこの揺れの原因なのか考えるそうだ。ようやく揺れが収まると、
「お前が伐ったあの木やないか」
「いや、太っといあの北斜面の木やないか」
と言い合い、さっきの揺れが山の神様の逆鱗に触れた木はどれだったかを探るそうだ。
「山の神てどんな姿格好?」
と母が木こりに尋ねたところ、
「赤黒い顔をして、鼻が高く、蓑のような長い着物を着ているが、足元はすっきりとしていて下駄を履いているらしい」
という。まさに天狗様である。
母は、山に茸や栗を取りに行くとき、それまでは一人でも平気だったのだが、その話を聞いてからは一人で行けなくなったといっていた。
二つめの話は、母の幼いころからよく知っている近所の女の子の話で、その子の家に名古屋から親類の同い年の男の子とその弟が遊びにきた。
その子の家は集落から離れた山の中にあって、代々その家は、昔この付近であった合戦で亡くなった武者たちの墓を守る役目がある家系だったそうだ。だから、人里離れた場に家があり、電気も通っていなかったのでランプ生活をしていた。
名古屋から来た男の兄弟はそんな原始的な生活を喜び、夕食の後に花火をして、花火が尽きると好奇心から、武者の墓のある場所まで行きたいと言い出した。
懐中電灯はおろか提灯もない。それにその夜は厚い雲が覆っていて星も月も空にいなかった。家の前から離れるとそこはもう一面漆黒の闇である。光源となるものから離れてしまうとまるで見えない。それでも男兄弟は、「真っ暗だぁ、真っ暗だぁ」と喜びの雄叫びをあげた。そして、兄が、
「こんなに真っ暗だと、天狗に鼻をつままれてもわかりゃせんなぁ!」
と、ちょっと小ばかにしたような言い方をした瞬間のことである。弟と女の子は、兄の悲痛な叫び声を聞いた。
「うぎゅ~痛い、痛い、放せ、は、な、せ~」
のたうちまわるような兄の姿が気配でわかる。足をバタバタさせているのもわかる。
「兄ちゃん兄ちゃん!」
弟が叫ぶが、兄の「あーあーあー」という声しか聞こえない。
女の子は手さぐりで兄の体を探した。すると二の腕あたりにごわごわとした感触があった。
後から母が聞いたところでは、
「炭でつくった着物みたいにざらざらとしていて、さわった腕のところは真っ黒になっていた」
と女の子はいったという。
そうこうしているうちに、兄は「ああん」という、まるで高いところから落ちたときに叫ぶ声を出したかと思うと、女の子の足に手を伸ばしてきた。「きゃっ!」いきなりつかまれたので女の子は驚いたが、「ぼくだよぼくだよ」と泣きそうな声の主が兄なので安心して、「どうしたんや?」と闇の中で聞くと、「はやく家に帰りたい帰りたい」と泣き出したという。
三人手をつないで家の方向に歩きだし、ようやくぼんやりと灯りがともる家を見つけ、囲炉裏端にいる親のところまで来たら、兄の鼻が真っ赤になってすこし腫れていたそうだ。
「天狗に鼻をつままれた」
兄はそう説明したが、女の子の親は、
「天狗様か、武者様か、わからんの」
という。
墓に眠る武者が、元気な男の子を見てちょっかいを出したのかもしれないと女の子の祖父は語ったという。
夏休みが明けて、女の子からその話を聞いた母は、
「それは天狗様に決まってる」と言ったそうだ。
根拠はわからないが、母なりに天狗に何か思い入れか、底知れぬ恐怖心を抱いていたのかもしれない。