天晴れな人   

 あなたは私利私欲のない人でした。何かをしても、その何かはいつも「だれかのために」でした。旦那さんのため、子供のため、親戚のため、友達のため。常に何かをすることは自分以外に対してのもので、そこには何の思惑も、下心も、わだかまりもなく、あっけらかんとした明るさに満ち溢れていました。すてきな笑顔も。


 欲を出すのはゴルフのスコアだけだったかもしれませんね。


 私利私欲より人のため、だれかが喜ぶことができればそれが自分の幸せになる、嬉しいと思う、笑顔で、「そのほうがいいですやん」という人でした。


 そんな人生を若い頃からずっと歩んできたから、人の悪口も、だれかが言うことに相槌を打つことはあっても、自分から言うことは決してありませんでした。


 百合子という名前のとおり、花や木を愛でる気持ちがありました。季節の花を心待ちにし、けなげな姿の蝋梅や苔をいとおしみました。大きなものより、小さくて可憐なものに心を寄せていました。小さくてもしっかりと存在感を放つもの、だけど押しつけがましくなく、ひそやかな可憐さを持ったものたち。それは長野百合子さんそのものです。いつもにこやかで、花のような微笑みがありました。


 愛する人を失った後、忍び寄る喪失感と虚脱感。だけどあなたは、「さびしいわ~」とは言わず、「みんなあの人はほんまにええ人やったと言いますねん」と、笑い話にしてしまいました。


 ひとりの道を歩み始め、ときにひとり言をいい、ときに亡き人に呼びかけていましたね。これからもずっと続くと思っていたのに、まるでつむじ風に連れ去られるように、あなたは愛する人のもとへ飛んでいってしまった。残された私たちはたまらなく哀しいし、残念だし、本当にやるせないけど、すでに空の高みにいるあなたは、「次、どんなことをしらたあの人は喜ぶんやろ?」と思っているかもしれません。


 女性だけど、実に天晴れな人生でした。あなたが行ってしまった翌朝の空は見事に晴れ渡り、澄み切っていました。あなたの空、天晴れな空でした。みんなの心の中には、それぞれの長野百合子がいます。そして、みんな感謝しています。


 バレンタインのチョコレートを届けるために、武久さんのもとへ飛んで行った人よ、さようなら。ありがとうございました。




 2月12日の夜、おそらく午後8時30分から9時30分の間ころに急逝した義母。

その通夜と葬儀のときに読んだオマージュです。


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# by kazeyashiki | 2018-02-18 13:40 | 暮らし | Comments(0)

夷川通   

京の通りめぐり、三月の掲載は「三条通」ともう一本「夷川通」を選んだ。京の家具屋街として有名な通りだ。かつて丸太町通には材木店が軒を連ね、北山杉などの木材を扱っていた。夷川通は、丸太町通の二本南、下ルに東西に延びる通りだ。「♪~丸竹夷二押御池姉三六角蛸錦~♪」の三文字目の通り。丸太町の原木を夷川できれいにして家具に仕上げたのだろうか。かつての盛況は薄れているものの今も家具屋が何軒か並んでいる。夷川通は堀川通の二条城前からはじまる通りで、今や整備された水路となった堀川に小さな橋が架かっている。ここを起点にして狭い夷川通を東へ向かって歩き出す。

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商人町なので、彼らを目当てにした食堂があったが今は閉じられている。いそがしい商いの合間を縫って、うどんとお稲荷さんでもつまんでいたのだろう。

通りを歩いていると、建物の細かな部分にまで目が届き、いろいろ発見するものがある。仕舞屋などふだんは見ないものだが、閉じたうどん屋の前にたたずむと、多くの商人たちが暖簾をくぐって「すうどん!」と奥に向かって叫び、テーブルに座ってせわしなくハイライトに火を付けたりしている情景が思い浮かぶ。店の外まで漂ううどん出汁の匂い、途切れることなく鳴る出前注文の電話のベル、「番頭は~ん!」と言いながら店に飛び込んで、飯を食っている旦那を呼びに来る丁稚の姿。もしかしたら繰り広げられたかもしれない情景を幻視する。

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そんな商人の町夷川で明治17年に創業したのが「豆政」だ。この場所で豆の雑穀商として店を出し、やがて五色砂糖掛豆の販売をはじめ、京都駅で土産物として売って人気を集めた。今も「夷川五色豆」としてよく売れている。店の人と話していると、「柳馬場を下ったところにあるハリストス正教会はなかなかいい建物ですよ」と教えられて向かう。

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こげ茶色の町屋が並ぶ通りの間にいきなり純白の西洋建築物が目に飛び込んでくる。明治30年に、京都能楽堂跡地を購入し、同3412月に聖堂「生神女福音(しょうしんじょふくいん=受胎告知)」が完成した。ローマンカトリックやプロテスタントが西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、東方正教会は中近東からギリシャ、東欧、ロシアに広がったもの。日本へは江戸末期、函館のロシア領事館の司祭であったニコライによって伝道された。ニコライといえば神田駿河町にあるニコライ堂の名で有名な聖人だ。ニコライ堂では、森繁久彌主演の映画「社長シリーズ」で、森繁の恐い妻を演じた久慈あさみさんの埋葬式がおこなわれた教会である。久慈さんはニコライ堂で聖歌隊の歌に感動して洗礼を受けたそうだ。京都ハリストス正教会では「イコン展」が開催されていて、19世紀のつくられたものや最近の作などのイコンを眺める。厳かで、何かこちらに対して不思議なオーラを放っているような感覚を受ける。

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夷川通に戻る。「櫻井」と旧字で書かれた店があり、「机と茶棚花台専門店」という看板が上がっていて、軒先に文机や食卓机が並べられている。見ていて飽きない。店前で見入っていると中から若女将さんが出てきて気安く声を掛けてくれた。やがて大女将も来られて「少し前にテレビ番組で原日出子が店に来たんやで」と笑う。

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寺町通に出たところに「本因坊発祥の地」の石碑があり碁盤のレリーフがあった。この界隈にあった寂光寺(現在は左京区仁王門通東大路西入ル)の塔頭「本因坊」の日海は囲碁の名人として名高く、徳川家康に招かれて江戸幕府の碁所を任された人物。今年、世界一にはならなかったが、囲碁棋士の井山裕太は天才棋士だ。囲碁といい将棋といい、最近メディアでよく取り上げられている。それがどうも解せない人もいるようで、過日「上野さん、将棋や囲碁の人がなんであんなに注目されたり、国民栄誉賞をもらったりするんですか?」と聞かれた。その人は囲碁将棋を全く指さない人だった。こういう人に説明するのはなかなか難しい。


寺町通の一保堂茶舗の角を曲がって夷川をさらに東へ進む。河原町通を渡ると鴨川が見えて来る。実は、かつてこの夷川通には鴨川に橋が架けられていて、鴨東へも通りはつながっていたのである。その痕跡として、今も鴨川には橋の礎石が残っていて、人々がこの石を踏み飛んで渡っている。橋は昭和10年まで掛かっていたようだが洪水で流され、その後再建されなかったそうだ。

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大きな河原がある川を持つ町はいいなと思う。家々が建て込んだ路地などがあって、そこを抜けると空が高い広場に出る爽快感。日本人は河川や河岸をあれこれ触る(工事をすること)が好きだが、ある程度整備されて芝生などの下草が植えられた状態でいいと思う。水防や砂防など諸問題があるにしてもだけれど。


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# by kazeyashiki | 2018-02-10 11:57 | 京都 | Comments(0)

京の女たち   

京都にはかつて、ものを売り歩く女性達がいた。大原女や白川女という言葉をどこかで耳にしたことがおありだろう。

大原女は薪や柴を運ぶ。建礼門院に由来しているらしい。白川女は御所に花を献じたのがはじまり。このほかに、周山街道から、畑の姥という梯子や鞍掛を売る梅ヶ畑の女人たち、鮎を売り歩いた桂女、上賀茂から、すぐきを売る女性達がいた。

ほぼ共通する衣裳は、紺木綿の脚絆、手甲に三巾前掛姿だ。

いま、観光用の人々はおられるものの、絶えて久しいように思う。彼女達は古代末期から中世初めあたりに平安京が政治の都から、商いを営む町へと変貌した頃に登場したのではないかと林屋辰三郎氏が書いている。

なかでも白川女は毎月一日と十五日の紋日にはかならず朝の町にやって来たという。紋日とは辞書によれば、日常と違ったハレの日を意味し、年中行事や祝祭日や婚礼、葬式などの人生儀礼の行われる日のことて、紋付の晴れ着を着ることが多かったので、近世以来、紋日という言い方が流行したらしい。旗日と共通している。

一乗寺に住んでいた頃、1976〜7年頃に白川女を見た記憶がある。だがその時はなんの感慨もなかった。残念であります。

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# by kazeyashiki | 2018-01-24 22:32 | 京都 | Comments(0)

オオサムコサム   

明日あたり大寒だそうだ。新年明けのえべっさん前あたりが小寒だったからいよいよ寒さも本格的になるということだ。

わらべ歌に「おおさむこさむ」というのがある。小さな頃に自分で歌ったのか誰かが歌っていたのかは憶えていないがこの歌を覚えている。こんな歌詞だ。

♪~おおさむこさむ
  山から小僧が泣いてきた
  なんといって泣いてきた
  寒いといって泣いてきた
  おおさむこさむ
  おおさむこさむ~♪

山から小僧が飛んできた、という歌詞もあるそうだ。小僧といえば「北風小僧の寒太郎」という歌がNHKの「みんなの歌」で流れていた。調べてみたら1974年12月に堺正章が歌ったもので、クラスの誰かが歌っていたのをかすかに覚えている。「寒い」と「小僧」の連想はしっくりと来る。おそらくその背景には「風の又三郎」というキーワードがあるからではないか。

「どっどど どどうど どどうど どどう青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせどっどど どどうど どどうど どどう」

この物語は9月1日の青空が広がっているけど風の強い朝から始まる。

「そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱や栗の木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。」

紅テントの芝居「唐版・風の又三郎」にこの宮沢賢治の本文が引用されていて、この芝居を上演するという学生劇団の稽古に雑用係で参加していたぼくは(19歳だった)すっかりこのセリフを記憶してしまった。いま声を出してこの文章を読むと、青白くて茜色した世界に連れていかれるような気になる。

昨日今日と寒さが消え、日差しが暖かかった。だが、また来週から寒波到来だという。そういえばネットで、サハラ砂漠に雪が降り積もったというニュースが流れていた。ドイツでは強風が町を通り抜け、歩いている人や自転車乗り、トラックまでもが風に吹き飛ばされている映像が流されていた。

地球は異常気象なのか。気温だけでなく、地殻にも何かが起こっているのだろうか。

しばらくは屋外の仕事はない。いや、2月1日に農家を取材し農地を撮影する仕事がある。場所は大阪府内。もっとも大阪の寒さなど、東北や北海道の人に言わせたら笑止の至りであろう。

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# by kazeyashiki | 2018-01-20 00:13 | 記憶 | Comments(0)

ほうじ茶   

 30歳頃まで「ほうじ茶」は法事の時に飲むお茶だと思っていた。
一人暮らしをしていて、お茶を飲む習慣があまりなく、
もっぱら家ではインスタントのコーヒーか紅茶。
実家で、持っていけといわれて日本茶の缶を渡されたくらいで、
ちゃんとした急須も持っていなかったと思う。
どうやって日本茶を淹れていたかといえば、
取っ手の付いた小さな網目の茶漉しを使っていたのだ。
母は玄米茶を日用していて、ほうじ茶は家になかった。
父は漢方のゲンノショウコのお茶を飲んでいて、
これはとても飲める代物ではないと思っていた。

 このほうじ茶が、実は「焙じ茶」であり、
煎茶や番茶を炒ったもの、焙煎したものであると知って、
何だか新しい世界のドアを開けたような気になった。
そして、飲んでみるとうまいのだ。
ほうじ茶は大きな急須に茶葉を多めに入れて、
熱湯をその中に入れるのがいいといわれている。
関西人の言い方なのだろうか、”ちんちんのお湯”である。
しっかり茶葉を広げさせて茶碗に注ぐ。
茶色い液体が湯気を上げる。
それを口にすると、香ばしさが鼻腔をくすぐり、
口に含むと独特の飲み味が広がる。
焙じたお茶であることがよく分かる。

 このほうじ茶、格付けでいうと玄米茶や番茶と同位だという。
なかには選りすぐりの高価なものもあるようだが、
手ごろな価格で、袋にぎっしりと詰まったものがいい。

 調べてみると1920年頃に京都で誕生したという。
たしかに京都のあちこちで出されたお茶はほうじ茶が多かった。
今宮神社参道のあぶり餅の二軒の店も、
餅と一緒に大きな急須が出てきて、ほうじ茶だったと思う。

 大学時代、この店の一軒でゼミが開かれたことがある。
森三樹三郎ゼミで、
教室に行くと、黒板に「ゼミはかざりやでおこないます」
と書かれていて、ぼくらは慌てて店に走った。
広い座敷のあるこの店で、あぶり餅を食べながら講義が開かれ、
ぼくらはお茶を何杯もお代わりしながら先生の話を聞いた。
店の人は何度か新しい急須を用意してくれたものだ。

 ちんちんの湯で淹れたほうじ茶。
勢いよく湯気が上がっているのは見ていて気持ちいい。
暖房が効きすぎる部屋ではなく、
ちょっと寒いくらいの、隙間風を感じる部屋で飲むと、
一段とうまさが増すように思える。

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# by kazeyashiki | 2018-01-04 12:48 | 京都 | Comments(0)