カテゴリ:京都( 26 )   

夷川通   

京の通りめぐり、三月の掲載は「三条通」ともう一本「夷川通」を選んだ。京の家具屋街として有名な通りだ。かつて丸太町通には材木店が軒を連ね、北山杉などの木材を扱っていた。夷川通は、丸太町通の二本南、下ルに東西に延びる通りだ。「♪~丸竹夷二押御池姉三六角蛸錦~♪」の三文字目の通り。丸太町の原木を夷川できれいにして家具に仕上げたのだろうか。かつての盛況は薄れているものの今も家具屋が何軒か並んでいる。夷川通は堀川通の二条城前からはじまる通りで、今や整備された水路となった堀川に小さな橋が架かっている。ここを起点にして狭い夷川通を東へ向かって歩き出す。

a0193496_11474376.jpg
商人町なので、彼らを目当てにした食堂があったが今は閉じられている。いそがしい商いの合間を縫って、うどんとお稲荷さんでもつまんでいたのだろう。

通りを歩いていると、建物の細かな部分にまで目が届き、いろいろ発見するものがある。仕舞屋などふだんは見ないものだが、閉じたうどん屋の前にたたずむと、多くの商人たちが暖簾をくぐって「すうどん!」と奥に向かって叫び、テーブルに座ってせわしなくハイライトに火を付けたりしている情景が思い浮かぶ。店の外まで漂ううどん出汁の匂い、途切れることなく鳴る出前注文の電話のベル、「番頭は~ん!」と言いながら店に飛び込んで、飯を食っている旦那を呼びに来る丁稚の姿。もしかしたら繰り広げられたかもしれない情景を幻視する。

a0193496_11483000.jpg

そんな商人の町夷川で明治17年に創業したのが「豆政」だ。この場所で豆の雑穀商として店を出し、やがて五色砂糖掛豆の販売をはじめ、京都駅で土産物として売って人気を集めた。今も「夷川五色豆」としてよく売れている。店の人と話していると、「柳馬場を下ったところにあるハリストス正教会はなかなかいい建物ですよ」と教えられて向かう。

a0193496_11490093.jpg
こげ茶色の町屋が並ぶ通りの間にいきなり純白の西洋建築物が目に飛び込んでくる。明治30年に、京都能楽堂跡地を購入し、同3412月に聖堂「生神女福音(しょうしんじょふくいん=受胎告知)」が完成した。ローマンカトリックやプロテスタントが西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、東方正教会は中近東からギリシャ、東欧、ロシアに広がったもの。日本へは江戸末期、函館のロシア領事館の司祭であったニコライによって伝道された。ニコライといえば神田駿河町にあるニコライ堂の名で有名な聖人だ。ニコライ堂では、森繁久彌主演の映画「社長シリーズ」で、森繁の恐い妻を演じた久慈あさみさんの埋葬式がおこなわれた教会である。久慈さんはニコライ堂で聖歌隊の歌に感動して洗礼を受けたそうだ。京都ハリストス正教会では「イコン展」が開催されていて、19世紀のつくられたものや最近の作などのイコンを眺める。厳かで、何かこちらに対して不思議なオーラを放っているような感覚を受ける。

a0193496_11492620.jpg

a0193496_11495026.jpg

夷川通に戻る。「櫻井」と旧字で書かれた店があり、「机と茶棚花台専門店」という看板が上がっていて、軒先に文机や食卓机が並べられている。見ていて飽きない。店前で見入っていると中から若女将さんが出てきて気安く声を掛けてくれた。やがて大女将も来られて「少し前にテレビ番組で原日出子が店に来たんやで」と笑う。

a0193496_11502429.jpg

寺町通に出たところに「本因坊発祥の地」の石碑があり碁盤のレリーフがあった。この界隈にあった寂光寺(現在は左京区仁王門通東大路西入ル)の塔頭「本因坊」の日海は囲碁の名人として名高く、徳川家康に招かれて江戸幕府の碁所を任された人物。今年、世界一にはならなかったが、囲碁棋士の井山裕太は天才棋士だ。囲碁といい将棋といい、最近メディアでよく取り上げられている。それがどうも解せない人もいるようで、過日「上野さん、将棋や囲碁の人がなんであんなに注目されたり、国民栄誉賞をもらったりするんですか?」と聞かれた。その人は囲碁将棋を全く指さない人だった。こういう人に説明するのはなかなか難しい。


寺町通の一保堂茶舗の角を曲がって夷川をさらに東へ進む。河原町通を渡ると鴨川が見えて来る。実は、かつてこの夷川通には鴨川に橋が架けられていて、鴨東へも通りはつながっていたのである。その痕跡として、今も鴨川には橋の礎石が残っていて、人々がこの石を踏み飛んで渡っている。橋は昭和10年まで掛かっていたようだが洪水で流され、その後再建されなかったそうだ。

a0193496_11510465.jpg

a0193496_11511894.jpg
大きな河原がある川を持つ町はいいなと思う。家々が建て込んだ路地などがあって、そこを抜けると空が高い広場に出る爽快感。日本人は河川や河岸をあれこれ触る(工事をすること)が好きだが、ある程度整備されて芝生などの下草が植えられた状態でいいと思う。水防や砂防など諸問題があるにしてもだけれど。


[PR]

by kazeyashiki | 2018-02-10 11:57 | 京都 | Comments(0)

京の女たち   

京都にはかつて、ものを売り歩く女性達がいた。大原女や白川女という言葉をどこかで耳にしたことがおありだろう。

大原女は薪や柴を運ぶ。建礼門院に由来しているらしい。白川女は御所に花を献じたのがはじまり。このほかに、周山街道から、畑の姥という梯子や鞍掛を売る梅ヶ畑の女人たち、鮎を売り歩いた桂女、上賀茂から、すぐきを売る女性達がいた。

ほぼ共通する衣裳は、紺木綿の脚絆、手甲に三巾前掛姿だ。

いま、観光用の人々はおられるものの、絶えて久しいように思う。彼女達は古代末期から中世初めあたりに平安京が政治の都から、商いを営む町へと変貌した頃に登場したのではないかと林屋辰三郎氏が書いている。

なかでも白川女は毎月一日と十五日の紋日にはかならず朝の町にやって来たという。紋日とは辞書によれば、日常と違ったハレの日を意味し、年中行事や祝祭日や婚礼、葬式などの人生儀礼の行われる日のことて、紋付の晴れ着を着ることが多かったので、近世以来、紋日という言い方が流行したらしい。旗日と共通している。

一乗寺に住んでいた頃、1976〜7年頃に白川女を見た記憶がある。だがその時はなんの感慨もなかった。残念であります。

[PR]

by kazeyashiki | 2018-01-24 22:32 | 京都 | Comments(0)

ほうじ茶   

 30歳頃まで「ほうじ茶」は法事の時に飲むお茶だと思っていた。
一人暮らしをしていて、お茶を飲む習慣があまりなく、
もっぱら家ではインスタントのコーヒーか紅茶。
実家で、持っていけといわれて日本茶の缶を渡されたくらいで、
ちゃんとした急須も持っていなかったと思う。
どうやって日本茶を淹れていたかといえば、
取っ手の付いた小さな網目の茶漉しを使っていたのだ。
母は玄米茶を日用していて、ほうじ茶は家になかった。
父は漢方のゲンノショウコのお茶を飲んでいて、
これはとても飲める代物ではないと思っていた。

 このほうじ茶が、実は「焙じ茶」であり、
煎茶や番茶を炒ったもの、焙煎したものであると知って、
何だか新しい世界のドアを開けたような気になった。
そして、飲んでみるとうまいのだ。
ほうじ茶は大きな急須に茶葉を多めに入れて、
熱湯をその中に入れるのがいいといわれている。
関西人の言い方なのだろうか、”ちんちんのお湯”である。
しっかり茶葉を広げさせて茶碗に注ぐ。
茶色い液体が湯気を上げる。
それを口にすると、香ばしさが鼻腔をくすぐり、
口に含むと独特の飲み味が広がる。
焙じたお茶であることがよく分かる。

 このほうじ茶、格付けでいうと玄米茶や番茶と同位だという。
なかには選りすぐりの高価なものもあるようだが、
手ごろな価格で、袋にぎっしりと詰まったものがいい。

 調べてみると1920年頃に京都で誕生したという。
たしかに京都のあちこちで出されたお茶はほうじ茶が多かった。
今宮神社参道のあぶり餅の二軒の店も、
餅と一緒に大きな急須が出てきて、ほうじ茶だったと思う。

 大学時代、この店の一軒でゼミが開かれたことがある。
森三樹三郎ゼミで、
教室に行くと、黒板に「ゼミはかざりやでおこないます」
と書かれていて、ぼくらは慌てて店に走った。
広い座敷のあるこの店で、あぶり餅を食べながら講義が開かれ、
ぼくらはお茶を何杯もお代わりしながら先生の話を聞いた。
店の人は何度か新しい急須を用意してくれたものだ。

 ちんちんの湯で淹れたほうじ茶。
勢いよく湯気が上がっているのは見ていて気持ちいい。
暖房が効きすぎる部屋ではなく、
ちょっと寒いくらいの、隙間風を感じる部屋で飲むと、
一段とうまさが増すように思える。

a0193496_12460047.jpg

[PR]

by kazeyashiki | 2018-01-04 12:48 | 京都 | Comments(0)

関西歴史紀行   

 秋からある広告会社で
「関西歴史紀行」なるホームページの取材と原稿を書かせてもらっている。
京都の通りを歩いてめぐる紀行で、
クルマや自転車でなく、歩いてのんびりと進む程度のゆっくりとした散策だ。
これまでに
「寺町通「丸太町通」「鞍馬口通」「鷹峯街道」「曼殊院道」「浄福寺通」と掲載し、
今後も「姉小路通」「千本通~五辻通」などを予定している。

 歩いてめぐる京の通り。
生活道路や商業地域もあるのでクルマの往来もそれなりにあるが、
古くから店を構えている老舗、
境内が縮小されたけれど由緒ある神社や寺院、
京都市が建てた歴史の碑などがあり、実に楽しい。
京都には18歳の時から暮らしはじめ30歳半ばまでいたわけだけど、
その間は芝居活動などに熱中していたせいか、
古刹や老舗にはほとんど興味がなかったし、知り得なかった。
だから新鮮に受け止めている。

 古くから京都に住む人たちにはどのように映っているのか心配で、
先日、京都の歴史文化や精神文化に造詣が深い音楽家の山田君と話をしたら、
さほど厳しい批評でもなかったので少し安心した。
とはいえ、文字数に限りがあるので詳細まで書き込んでいないし、
寺社仏閣にはさらに深くて底が見えないくらいの物語が隠されているのだろう。
まさに手掘り感覚で調べ、読者に興味を持っていただきたいと思っている。

「関西歴史紀行」HP
http://www.nipposha.co.jp/rekishikiko/

a0193496_17052548.jpg
a0193496_17061129.jpg
a0193496_17071001.jpg
a0193496_17085651.jpg
a0193496_17093585.jpg



[PR]

by kazeyashiki | 2017-12-24 17:12 | 京都 | Comments(0)

『古都再見』   



a0193496_15342674.jpg
 昭和36年に河出書房新社から刊行された一冊、
『古都再見』をネットで手に入れる。1000円だった。

 古都京都の各所を様々な人達が書いている。

 巻頭は吉井勇である。
以下、知っている名前だけを書きだすと、
松田道雄、末川博、依田義賢、千宗室、吉川幸次郎、渋谷天外、奈良本辰也、
湯川秀樹、毛利菊枝、林屋辰三郎、池坊専永、田中美知太郎、小川環樹と
錚々たる執筆者がそれぞれ京都の地について書いている。
読み応えのある本だ。

 この本を教えてくれたのは、
浄福寺通で「ととや」というちりめん山椒屋を営む女性からで、
彼女の姿がこの本に載っているという。
「上七軒」の項を見ると、モノクロ写真で可愛い芸妓さんが写っている。
それが彼女だ。
昭和35年、女性は上七軒で芸妓をやっていて、
たまたま依頼されて被写体になったという。

a0193496_15353863.jpg

 その後少しして彼女は客で来ていた男性に求婚され、
上七軒期待の芸妓はあっけなく嫁になってしまった。
そのことで「いろいろ文句を言われましてなあ」と笑う。

 湯川秀樹さんは「大仏殿石垣」という稿を寄せている。
国立博物館から豊国神社、方広寺界隈を、若き物理学者はよく歩いたという。
秀吉の死後に再建された方広寺の鐘を巡り、ひと騒動あったことを湯川は
「彼(秀吉のこと)の気質は大多数の京都人とは、およそ反対のように思われる」
と書き、大仏殿のあったあたりがさびれてしまっているのは、
この気質の違いではないかと書いている。

 今、この地区を歩くと、住宅が無秩序に建ち並んでいる。
湯川も、昭和35年頃に歩いていて、
「いくつもの楽しい家庭生活がそこで営まれていることを喜びたいと思う」
と書いている。
”もはや戦後ではない”といわれた昭和31年から数年後の日本。
この物理学者にとって平穏な暮らしの営みは貴重なことだったのだろう。
そういえば、最近湯川の戦時中の日記が発見された報道があった。
広島長崎に投下された原爆についての記述があったと聞いている。
だが、新聞社の問いかけに氏は沈黙を守ったと。

 半世紀前の京都の風土、風景、精神文化を知るにいい一冊である。

a0193496_15350008.jpg

[PR]

by kazeyashiki | 2017-11-28 15:45 | 京都 | Comments(0)

京歩き晩秋篇   


二条駅を起点に千本通を上る。

丸太町通交差点に太極殿跡の碑がある。

中立売界隈はかつて西陣興隆期、西陣京極なる繁華街歓楽街だった。
芝居小屋や映画館、居酒屋、スナックがひしめいていた。
その残像が今も幽かに残っている。

すっぽん料理の名店は今も営業中だ。

千本今出川角近くのレトロな喫茶店は祝日ともあって満員御礼。

師走の風物詩「大根だき」の千本釈迦堂は、
12月7~8日の本番前の下準備にいそがしい。

五辻通を西へ。京都最古の花街上七軒の石畳には大勢の観光客。
仏蘭西料理店「萬春」はすでになく、新しい店が軒を連ねている。

やきもちの天神堂で買い食い。

天神さんに足を踏み入れたら、
境内一面に参詣者が広がっていて歩くもままならぬ。
様々な言語が飛び交っていた。

千本通から寺之内通へ。

先日撮影に訪れた折に買い求めた「ととや」のちりめん山椒があまりに美味だったから、
また買い足しに。
美貌の女将と話し込む。聞けば、若い頃に上七軒の芸妓だったという。
古写真を見せて頂く。
それをスマホで撮影。
美人である。
彼女手作りのちりめん山椒は、炊きたてご飯に合う。

土産をザックに詰めているだけで嬉しい。

[PR]

by kazeyashiki | 2017-11-23 20:55 | 京都 | Comments(0)

夏越の祓   

大阪にもう長く住んでいるが、6月30日は水無月を食べないとイカンという気になり京都へ。水無月とは、白ういろうの上に甘い小豆を載せた三角の和菓子である。夏越の祓、年の残り半分の無病息災を願うために食べる古都の風習である。


初めて食べたのは下京の親類宅で、自分はまだ小学生だった。ういろうは何度か口にしていたが、小豆が載ったものは初めてで、しかも病気にならないおまじないが食べることに含まれていると大人たちから言われたことで、なにか仏教的な(親類宅は熱心な真宗だった)印象がガキながらあった。


18歳から京都に住み始めて放埓な生活をしていたから、この風習に遭遇することはなかったが、何度か転居して地域との付き合いができるようになると、近所の人がお裾分けしてくれて、水無月に再会した。


この季節の食文化がいつから京都にあるのか知らないが、三角形に切るのは氷のかたちに似せたからだと聞いた。夏の暑さが本格化するこの時季、氷室から氷を切り出し口にするという宮中の行事が由来らしい。氷は庶民には手に入らない高価なものだったから、ういろうで代用したということなんだろう。


京都で氷室といえば、京見峠の先に地名がある。あそこから氷を切り出して御所まで運んだのだろうか。あるいはほかにも氷室はあるのだろう。高槻市に住んでいた地名も氷室だった。西国街道の巡礼橋の近く、継体天皇陵の近くののんびりとした地域だった。


[PR]

by kazeyashiki | 2017-07-01 19:43 | 京都 | Comments(2)

ZUMA   

1977年の夏の終わり、
一乗寺の狭くて暑い下宿屋で繰り返し聴いていたのがこのニール・ヤングのZUMAだ。

ぼくはその夏のはじめからずっと、
金沢の辰巳という犀川の上流にある元ミシン工場で舞踏公演の手伝いをしていた。

舞台のことなど何も知らないのに,
一ヶ月間そこに居候できたのは公演主宰者のY氏の度量だった。

3日間の公演が終わり、
京都行の普通列車に乗りながらぼくは何をして遊ぼうかと考えていた。

だが、面白そうな遊びは浮かばなかった。

狭い部屋に閉じこもって二ール・ヤングばかり聴いていた。

すこし秋めいてきたとき部屋を飛び出した。

ZUMAとはその夏に別れたっきりだった。

で、昨日ひょっこり目の前に現れた。

曲も曲順も自分でも驚くほどよく憶えている。

弾き間違えもなんのそののアルバムだ。

a0193496_22080923.jpg

[PR]

by kazeyashiki | 2017-03-25 22:13 | 京都 | Comments(0)

昔人語りき   

京都は町の辻々に地蔵さんが沢山あるが、見てゐると子供達が前を通り過ぐる度にペコリと頭を下げてゆく。観光で名所旧蹟を訪ぬるも好いが、路の縁に佇みて微細に動く影絵芝居のやうな情景を眺むるのも旅の醍醐味ではあるまいか。
[PR]

by kazeyashiki | 2017-03-07 07:10 | 京都 | Comments(0)

節分祭   

今年初めて書く日録です。
サボり気味ですな。

2月2日の日曜日、京都吉田神社の節分祭に出かけて来ました。
大賑わいの参道、屋台を覗いたりしながら歩くだけ、
厄除け祈願や、くちなし色の御神札を求めるわけでもない、
不信心な参拝者であります。

a0193496_1414582.jpg

学生時代、何度か訪れました。
たいがい雪が舞う中だったと記憶していて、
「節分祭=寒い」という定理が刷り込まれているのですが、
今年は暖かいなんてものじゃなく、セーター&コートが暑い。
これじゃ「関東煮」も売れないだろうなあ。

a0193496_142047.jpg

鳥居の下で劇団の田島君と待ち合わせ、
おっさん二人で大元宮までそぞろ歩き。
そして坂の途中にありました。
京都松井酒造の「富士千歳」の「しぼりたて」と「にごり酒」。
田島君は2つのコップを持って歩くのが定番らしいけど、
私はとりあえず「にごり酒」だけを購入。四百円。

それを持って坂道をのぼり、傍らの井戸端でゲソを肴に呑む。
冷たいにごりがことのほか旨い。

すると田島君が、
ちょうど正面に出店している種やドライフルーツを商う男を示し、
「あの兄ちゃんに以前捕まったんですわ」という。
やたらと試食を進められ、気がつけば結構な量を買っていたという。
「うまいんですわ、あの兄ちゃん。芸ですわ。芸で買うてしまう」
見ていると、兄ちゃんはお客が立ち止まっていてもすぐに声を掛けない。
だけど本能なのか、「この客は」という人には”飛びかかる”。
そしてあれこれ話しかけて懐の中に入り、遂に買わせてしまう。
なるほど、これは一芸である。
その様子を眺めながら酒を呑むのはなかなか楽しかった。

帰路、聖護院八ッ橋の出店前を通りかかると、
以前、京都放送の番組に出演してもらった美貌のK子さんに出くわした。
節分祭の時はずっと店にいるとインタビューで言っておられたので、
出くわしたというのは正確ではないですね。
お茶と和菓子をご馳走になるが、
和菓子は彼女が丁寧に包んでお土産にしてくれた。

a0193496_1421559.jpg

吉田神社では都合三合の日本酒を呑んだのでほろ酔い気分である。
そのまま三条小橋の知り合いの店まで歩く。鴨川河川敷は春景色である。

そうだ。
久しぶりに西部講堂へも足を運んだ。
周囲は変わっているけど、西部だけは昔のままだった。

a0193496_1422817.jpg

[PR]

by kazeyashiki | 2014-02-04 14:04 | 京都 | Comments(0)